「おれも切羽詰まった」と、竜馬は、カマチに腰を下ろした。
竜馬がゆく 7 P122
竜馬はわざとことばを誇張させて、
「土佐藩と手を握りたくなった。へんぺんたるわれら郷士の感情は、あたらしい日本の築きあげのためには捨てねばならぬ。俺はそう思った。」竜馬は、カマチの上であぐらをかいた。
「おれは後藤と手をにぎるぜ」
「えっ」
「後藤は、土佐二十四万石の参政だ。容堂様のご寵愛も深く、藩を指一本で動かせる位置にある。おれは後藤を使う。後藤を殺してしまえば使えまい。人間の死体ほど役立たずなものはないからな」
「おいおい、竜馬」
土佐のエリート 後藤象二郎
土佐藩士で吉田東洋のおいにあたる。江戸留学で英語・航海術を身につけて土佐に戻ると、山内容堂のもとで、武市半平太ら土佐勤王党の罪を厳しく追及。武市半平太が切腹を命じられるまで調べ上げた。
幕末の転換期に坂本龍馬と親しくなり、大政奉還の考えを提案される。
さっそく、この案を山内容堂にすすめ、慶応3年10月14日(1867年11月9日)大政奉還が実現した。
この時の働きを認められ、明治新政府では重要な役割を次々と任されますが
明治6年(1873年)の征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野(明治六年政変)。
吉田東洋の甥(おい)で土佐勤王党と敵対
早くに父を亡くした後藤象二郎は、伯父で土佐藩・大目付 吉田東洋に養育を補助してもらい育ち、土佐藩の要職に就いていましたが、吉田東洋が勤王党に暗殺され、任を解かれることに。
文久3年(1863年)に勉学のため江戸に出て、開成所で大鳥圭介に英語を学び、会津藩士・高橋金兵衛に航海術を学んだ。
元治元年(1864年)に藩政に復帰した時に藩主・山内容堂に取り立てられて藩の要職に復帰できることになります。
この頃に、伯父の仇である土佐勤王党には厳しい取り調べを行い、坂本竜馬の盟友・武市半平太をはじめ沢山の切腹者を出しました。
岩崎弥太郎の能力を知っていた
吉田東洋が私塾で後藤らを教えていた時「貿易論」で論文の宿題を出しました。文が苦手な象二郎は知人に代筆を頼むことに。
すると、あまりの出来の良さに吉田東洋が見破って「誰に代筆を頼んだ!」と質問。安芸にいた地下浪人に頼んだと告白します。
地下浪人にも頭の切れるものがいるのかと感心をして、呼び出したのが岩崎弥太郎でした。
岩崎弥太郎は、この縁がきっかけで土佐藩の使用人(下層の下級警視)に取り上げられます。その後も後藤象二郎に仕え、土佐藩の商売に大いに関わることになります。
竜馬と象二郎、二人三脚で大政奉還に尽力
土佐藩の貿易を重要視して土佐商会を設置・竜馬と手を組む
慶応3年1月、土佐藩は後藤象二郎に、幕末のこの時期に応じた藩改革を命じます。
そこで象二郎は、貿易などで名を売っていた坂本竜馬に力を貸してもらおうと考えました。
しかし、坂本竜馬は土佐藩を脱藩した武士。竜馬にしても後藤象二郎は、盟友の武市半平太らを自害に追い込んだ土佐藩上士。お互いのわだかまりを解決しないと話が進まないところですが・・・
会議の場所は、長崎の大浦お慶が営む清風亭。
この会議場に、土佐藩は花街・丸山・花月のお元を連れてきました。お元を竜馬が馴染みにしていることは亀山社中の者も知らないほどの竜馬の秘密事でした。
後藤象二郎が、竜馬を接待するためにいろいろと調べて、お元を連れて来たことに驚き、会談に向けた準備と根回しに用意周到な後藤象二郎を、竜馬は次第に認めていきました。
亀山社中は「薩長」によって成立している商売だ。これに土佐を加える。
薩長土三藩の結束をもってすれば、徳川幕府を倒すことも可能だ。
慶応3年6月船中八策から「大政奉還建白書」作成
亀山社中は土佐藩と貿易を始めることとなり、後藤象二郎の働きかけで坂本竜馬は土佐藩・脱藩の罪が解かれることになりました。こうして2人は友好関係を築いてきました。
友好関係を築いてきた2人。
坂本竜馬は、6月9日の会合で、大政奉還論を山内容堂に進言するため、政治綱領(船中八策)を提示しました。
これを土佐に持ち帰った後藤象二郎は、細かい検討を進めて「大政奉還建白書」を起草します。
徳川幕府に「大政奉還建白書」を提出の後、慶応三年10月13日。後藤象二郎は、徳川慶喜から二条城に呼び出されることになりました。
二条城に向かう後藤象二郎にむけて、竜馬は手紙で
歴史人2019年12月号 坂本龍馬の真実
「大政奉還を万一将軍が受け入れなかったときには、後藤先生も生きて帰るつもりはないでしょうから、あの世でお目にかかりましょう」と、脅しのような手紙を送りました。
後藤の方も、
「健白書が受け入れられなかったら、もちろん生きて帰るつもりはありません。
が、
後日の挙兵のため、ひょっこり下城することももしかしたらあるかもしれません」
と、とぼけた返信を送り返しています。
後藤先生、あの世でお目にかかりましょう
明治維新後
明治新政府より後藤象二郎は明治維新の功により、賞典禄として1000石を賜り、参与に任命され、大阪府知事など要職をいくつか歴任します。
その後、板垣退助らとともに愛国公党を組織、民撰議院設立建白書を提出し、大同団結運動を提唱しました。
党派を超えた活躍をする政治家で伯爵も授けられ、逓信相・農商務相を歴任しますが、収賄事件の責任を取り辞職し政治生命を終わらせることとなります。
後藤象二郎はヴィトンのお得意様
明治16年(1883年)。パリのルイ・ヴィトン本店で板垣退助のために、大型のトランクを購入しました。この時の購入履歴が顧客(お客さま)リストに記載されているため、後藤象二郎が、「日本人最初のルイヴィトンの顧客」といわれています。
幕末・維新人物 大辞典