勤王党切腹一号

土佐藩

竜馬は、間崎、平井、弘瀬の切腹の報をうけたとき、
ーこれぁ、武市の勤王党は瓦解するな。
と直覚した。

「たれかしっちょる者はおらんかぁ。国もとで間崎らが切腹したそうじゃのうぉ。教えてくれんかねぇ」

「中島作太郎と申します。国許での間崎先生らの一件、よく存じております」

竜馬がゆく4 P47

土佐勤王党は、土佐藩の藩政改革を行うため、青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動していました。この越権行為が土佐藩主の権威を失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂の逆鱗に触れることになり、「不遜の極み」と捕縛される事になります。

文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太が、責任をとって切腹となりました。
土佐勤王党の犠牲者第1号となり、勤王党解体が始まりました

浅黄裏(あさぎうら)と武士魂

ドラマなどで武士が切腹をするときに真っ白な上下を着ていますが、実際には浅黄色の裃を着用しました。

浅黄色は、ライトブルーに近く、武士の間では切腹の色、士道覚悟の色とされました。新撰組が隊士の羽織の色としたのも武士道を表したと言われています。
江戸詰めの各藩の武士は、羽織の裏地を浅黄色にしていました。万一、無作法なことがあり責任を取るときに羽織を裏返すと、切腹の正装にできるためと言われていますが、江戸庶民からは「浅黄裏」=田舎侍と馬鹿にされるネタにもなりました。

浅黄色の由来
一説には、浅黄色と切腹した血の色が混じると「碧(みどり)色」となるため用いた。
道教の始祖の一人・荘子にある言葉で「碧血(へつけつ)」から、忠義で死んだ者の血は三年間土中にあると碧玉(へきぎょく)になるという故事伝説からの由来となります。
切腹する武士は、浅黄色の裃を着て、着座する敷物も浅黄色だったと言われています。
 歴史ドラマの大ウソ 大野敏明著 産経新聞出版より

碧色

浅黄色

武士が嫌う椿の花

江戸時代の切腹

切腹が武士のけじめの付け方となったのは安土桃山時代のころといわれています。しかし、自傷で腹を割くのはまず困難で、半端に苦しんだり気絶することが多く、元禄の頃からは介錯の手助けを受けることになります。
江戸時代には「扇子腹」と言う作法で、扇子を腹に当てることが短刀で切腹した代わりと見なして、介錯人が刀を振り落とすことになります。

幕末になり、血の気の多い武士が切腹を迫られることが多くなると、扇子腹が影を潜めて本当の切腹をする者が多くなります。「武市半平太の三つ腹」をはじめ、真一文字・十文字などの切り方が伝わっています。
(歴史ドラマの大ウソ 大野敏明著 産経新聞出版)

土佐勤王党 3人の辞世の句

 竜馬がゆく4 P49より

間崎哲馬

獄中には筆がないためこよりをひねって辞世の句を残した。
 丈夫今日死すなんぞ悲しまん
 略見る聖朝、旧儀に復するを
 一時猶余す千歳の恨み
 京畿いまだ樹たず伯章の旗

弘瀬健太

弘瀬はゆうゆうと切腹の座につくと、介錯人にむかい、
「オラが作法を終えるまで首をハネるな」
といい、その「研究」どおりにやって、ついに介錯の太刀は不必要であった。

平井収二郎

獄中で、壁に爪をもって絶命詩を刻み込み、白装すずやかに切腹の座に出た。
介錯人は、年少の頃から一緒に道場に通った仲の平田亮吉であった。亮吉は真蒼に緊張していたから、平井はふりむいて
「落ちついてやってくれ」
とはげまし、腹をくつろげてしばらく撫でていた。
「もはや往こうか」
と短刀を握り気合いとともに突きたてた。介錯の亮吉はあっと狼狽し、あわてて振り下ろした。が、手もとが狂い、ぐわっと後頭部の骨に当たって、刀がはね返った。
「これ、落ちつけと言うちょるのに」
平井は、苦痛で歪んだ顔でいった。
二太刀目で、首が落ちた。