鬼山田 井口村刃傷事件1

土佐藩

その日は、三月四日。雛の節句である。
土佐藩では、この日、上士が総登城して、殿様から御酒をいただく慣習がある。
その夜。午後8時頃であったらしい。城下がひっくり返るような刃傷事件がおこった。
上士に、「鬼山田」といわれた一刀流の刺客がある。名は、山田広衛といった。

(竜馬がゆく2 P192)

井口村刃傷事件 とは

上町五丁目電停で下車し、50mほど北に進む。江ノ口川の手前を左折して約150m西進すると、陶製位牌(県文化)を有する永福寺(浄土真宗)が川の北側にある。この門前で、1861年(文久元年)3月、上士の山田広衛と下士の中平忠次郎が斬りあいとなり、忠次郎が殺害された。その後、さらにこの現場に中平忠次郎の兄・池田虎之進がかけつけ、山田広衛を殺害した。
この井口事件に対する藩の処置は下士の池田虎之進に厳しかったので、下士の不満がつのり、その団結のきっかけとなった。
永福寺・西側の福井橋を渡り、山ぎわを北西に少し進むと坂本家墓所の登り口に至る。龍馬の父八平・母幸(こう)・兄権平・2姉栄・3姉乙女らの墓がある。
(高知県の歴史散歩/山川出版社2006年)

竜馬がゆく では
衆道(男色)にうつつを抜かす若い郷士が、雛の節句の宴帰りに酔っ払っている山田広衛とぶつかり、刃物沙汰となって切り捨てる。これを聞きつけた兄の池田虎之助が現場に駆けつける。
血のついた刀を洗っている山田を見つけた池田寅之進は、敵討ちとして山田を討ち取った。
(竜馬がゆく2 P196)

お〜い龍馬 では
役職に推挙されなかった山田が、悪酔いしながら道を歩いていると、荷車を押していた郷士の連れが挨拶をしなかったと言いがかりをつけて無礼討ちをする。
その弟が竜馬に憧れる池田寅之進で、川原で血のついた刀を洗う兄山田を敵討ちする。
(お〜い竜馬新装版 4卯月)

翌朝には事件は人々の知るところとなり、山田の家には上士達が、寅之進の家には郷士達が集まる。両者、互いに対決せんと息巻いており、一触即発の危機を迎えていた。この時、郷士側に当時25歳の坂本龍馬も参加したと伝えられる。 『維新土佐勤王史』には、「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とだけ記されている。(wikipediaより)

このまま事態が悪化すると上士と郷士の全面衝突が避けられない自体となった。老功の者が「池田も仇を討った以上、今さら命を惜しむ理由もないだろう。だからいって、上士のもとへ引き渡すわけにもいかない。ここは潔く腹を切って、武士の名誉を立てるしかない」と主張して、池田虎之進と宇賀喜久馬が切腹することで事態の決着をついた。

だが、土佐藩では上士側は謹慎処分郷士側はお家断絶という差別のはっきりとした裁きを行い、これがきっかけで郷士側が団結していき土佐勤王党の結成に繋がります。

土佐藩武士の上下関係が、真っ二つに対立することとなったこの事件は、幕末の土佐藩にとってターニングポイントた言われています。

土佐藩内・上士/下士の対立

井口村刃傷事件で、上士側は謹慎処分郷士側はお家断絶という差別のはっきりとした裁きがでました。

上士側 吉田東洋

上士側のリーダーで藩の要職に就く吉田東洋は、土佐藩お取り潰しの事態を避ける為にも、事を穏便に解決する必要がありました。
最小限のお山田を斬り殺した事件当事者<郷士の池田虎之進>の命一つで解決するように命じます。

郷士側 武市半平太

郷士側は、池田寅之進らをかくまい
「どうしても2人を引き渡せと言うなら、我々郷士は命がけで守る。戦になって、藩お取り潰しになるまでだ」と徹底抗戦の構えに。

この時、郷士側に当時25歳の坂本龍馬も参加したと伝えられる。 『維新土佐勤王史』には、「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とだけ記されている。

しかし、郷士側のリーダー武市半平太(武市瑞山)は、
「私怨から生じた刃傷沙汰で、尊王攘夷の変革の最中に土佐藩がお取り潰しになるわけにはいかない」と説得をして、寅之進と喜久馬の切腹に応じることになります。

衆道の要素を書いた司馬遼太郎

竜馬がゆく より
鬼玉田につきあたった軽格(郷士)というのは、竜馬もよく知っている。
中平忠一郎という、若い郷士である。愚にも付かない男で、衆道(男色)にうつつを抜かし、宇賀某という美少年を愛している。
この夜も宇賀某と手を取り合って堤の上を散歩していたのだ。雛の節句の夜だから、闇まで艶である。逢瀬をたのしんでいたのだろう。出来ることなら、名も名乗らず、事も荒だてたくなかった。

(竜馬がゆく2 P196)

衆道(しゅどう)とは
日本における女人禁制又は極めて女人禁制に近い環境で発生した、身分や立場の差がある男性同士の男色をいう。「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)がある。

念此(ねんごろ) – 男色の契りを結ぶ。
念者(ねんじゃ) – 衆道関係における年長者。兄分。
若衆(わかしゅ/わかしゅう) – 衆道における年少者。
衆道(しゅうどう)-安永4年(1775年)米沢藩の上杉治憲が男色を衆道と称し、厳重な取り締まりを命じている。

武士の世界では、江戸時代以前より男色があったとされていて「女人禁制の戦場で武将に仕える「お小姓」として連れて行った部下に手を出した」ことなどが始まりだとされています。

中平忠一郎と共にいた宇賀 喜久馬は、事件時に19歳で、大変な美青年であったと伝わっています。