ちょっと用足し 井口村刃傷事件 その後

土佐藩

午後になって、飛び込んできた数人の気の荒い軽格連中が、
「坂本さん、いよいよ戦さじゃぞっ」と叫んだ。
「なぜじゃ」
「上士の連中が、死んだ鬼山田の屋敷に集結していて、池田寅之進の屋敷に斬り込もうとしている。すぐ池田屋敷に来てくれ。総大将のあんたがそこでにやにやしておられては、軽格がまとまらん」
「すぐ行く」竜馬は立ちあがった。

竜馬がゆく2P198

井口村刃傷事件 その後

「おまん、どこへいくんじゃ。斬り込みなら、お前ばぁ、やらせんど」
「いや、ちょっと用足しじゃ」門を出ると、暗い。

鬼山田の屋敷は、定紋をうった高貼提灯が出ていて、しきりと上士の連中やその共の者が出入りしていた。
竜馬は、門前で放尿し、やがて門内へ入った。
「お城下、本町一丁目の郷士、坂本権平の弟、竜馬です。お取り込み中で恐れ入る。どなたか、おられませんかな」

(竜馬がゆく2 P203)

土佐藩の判決

郷士
池田寅之進仇討ちで山田広衛、益永繁斎を殺害切腹
宇賀喜久馬中平忠次郎と同行し、池田家に事件を知らせる切腹
中平家・池田家郷士側の家族格禄の没収
宇賀家宇賀喜久馬の家族お家断絶処分
上士
山田家殺された山田広衛の家族父新六を謹慎処分
益永家茶道方・山田広衛と同行していた繁斎の家族お家断絶処分

池田寅之進が突発的に割腹

郷士・上士ともににらみ合いが続く。刃物沙汰に展開すれば土佐藩は無くなってしまいます。落とし所がない状態で、郷士に詰め寄る。
中と外で押し問答が続く中、寅之進が突発的に刀を腹に突き刺し割腹。皆に迷惑が掛かることを恐れた上での切腹であった。

井口村刃傷事件で上士と下士の対立が起こったため、責任を取ってその日のうちに切腹した。享年不詳だが、若かったと伝えられている。(wikipedia)

宇賀喜久馬の切腹

これを見た上士側は「宇賀喜久馬も切腹させよ」と要求。しかし、喜久馬はまだ歳若く、事件には一切関わっていないとして龍馬は喜久馬を守ろうとするも、このままでは喜久馬が上士等に斬り殺されるだけに収まらず、ここに居る全員が殺されるとして、流石の龍馬も助命を断念せざるを得なかった。

宇賀喜久馬の切腹は親族立会いの下、介錯をしたのが喜久馬の実兄である寺田知己之助(寺田利正。宇賀市良平の次男。18歳の時、同じく郷士の寺田久右衛門の養子となる)
実弟を介錯した当時25歳の知己之助はその後、精神を病んだとも伝わっています。
寺田知己之助(寺田利正)42歳の時に跡継ぎ長男として寺田寅彦が生まれました。

事件の6ヶ月後、土佐勤王党を結党

事件後、藩は上士の山田の父新八を謹慎処分としたが、弟次郎八には家督の相続を許します。
一方で事件に巻き込まれた形の郷士・松井家と宇賀家は断絶処分、中平家と池田家は格禄没収との処分がなされた。この決定に郷士側の人々は憤り、事件より半年後に結成される「土佐勤王党」の勢力拡大へとつながる一つの要因ともなっていったと言われる。

寺田寅彦

日本の物理学者、随筆家、俳人。吉村 冬彦(1922年から使用)、寅日子、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)の筆名でも知られる。高知県出身(出生地は東京市)。
井口村刃傷事件で切腹した宇賀喜久馬の甥。

寺田寅彦
震災は忘れた頃にやってくる
夏目漱石に師事

熊本の第五高等学校に在学中、英語教師・夏目漱石に師事。
漱石の元に集う弟子たちの中でも最古参で、科学や西洋音楽など寅彦が得意とする分野では漱石が教えを請うこともあって、弟子ではなく対等の友人として扱われていいました。
こうした漱石との関係から、内田百閒らの随筆では敬意を持って扱われています。

物理学者・田丸卓郎に師事
  • 「尺八の音響学的研究」で1908年(明治41年)理学博士号取得。
  • 「金平糖の角の研究」や「ひび割れの研究」など、統計力学的な「形の物理学」分野での先駆的な研究
  • 地震などの災害の研究「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉といわれ、発言録として残っている

天災は忘れた頃にやってくる

1923年の関東大震災発生時、上野の二科展会場にいた寅彦は、自分のいる建物の無事を確認すると、「この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しよう」とその場に留まり、建物の様子などを観察。続いて東京市内の焼け跡を回り、地震被害を調べた。
その後、防災について研究し、多くの随筆を残します。

災害は定期的に起こるものでだが、人間は過去のことを覚えていられない。
残る方法は、人間がもう少し過去の記録を忘れないように
努力するより外はないであろう

寺田寅彦は、その後に書かれた随筆でも防災について記述し、天災による被害を忘れることへの危険性を訴えました。しかし、寅彦の随筆の中に「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉は見当たりませんが、寺田寅彦の弟子であった科学者の中谷宇吉郎や藤岡由夫によれば、「寅彦は生前、このような言葉をしばしば口にしていた」と語っています。

寅彦の弟子であった科学者の中谷宇吉郎は、1938年朝日新聞に「天災」と題する文章を発表
「天災は忘れた頃に来る。 之は寺田寅彦先生が、防災科学を説く時にいつも使われた言葉である。そして之は名言である」
と記述しています。