いろは丸沈没事件

土佐藩

操舵室に、竜馬の時計がある。
その針が、十一時を指した。そのとき海面がにわかに盛りあがって、くろぐろとした巨影が船の正面にあらわれた。
(島か?)当直士官の水戸脱藩佐柳高次はとっさにおもった。船の針路は、あいかわらず東・一点南である。右舷には讃岐の箱崎の岬があるはずであった。このあたりに島があるはずはない。(船だ)と、佐柳はおもった。船とすればよほど巨大な船であろう。
この間、佐柳は、汽笛っ、と叫んでいた。

竜馬がゆく7 P252

慶応三年(1867年)4月8日大須藩の藩船いろは丸が長崎に入港。
このいろは丸を、土佐藩の後藤象二郎が500両の賃借料で借り入れて、米と砂糖を載せて大阪を目指すように海援隊に依頼します。
4月19日に長崎を出航し5日後の23日深夜に鞆の浦沖で、長崎に向かう紀州藩船・明光丸と遭遇。互いに退避しようとするものの衝突してしまい、いろは丸が沈没する事態になりました。
紀州藩船・明光丸に収容されたいろは丸の海援隊隊員らとともに鞆の浦に上陸し、今回の事故について交渉を行います。しかし、徳川御三家の紀州藩は格下藩相手の交渉と考えて、うやむやにしようとして交渉が難航。藩の用件を優先に考えて明光丸は長崎に向かいます。
交渉場所を長崎に移した海上事故の責任問題は、高額な賠償金問題に発展しました。

いろは丸沈没の状況

(1)いろは丸の士官が右ななめ前方に右舷録燈(夜間に船の右につける緑灯/左は赤灯)を発見
(2)明光丸操舵手がいろは丸を発見。万国航海法の通り、迂回して回避しようとする
(3)いろは丸は明光丸を避けるために急左廻
(4)明光丸は衝突不可避となり左廻していろは丸右舷に衝突
<衝突>
(5)明光丸、いったん後退
(6)いろは丸乗員を救出するため前進するも、ふたたびいろは丸右舷に衝突
(7)その後いろは丸を鞆の浦まで曳航するも途中で沈没した

いろは丸明光丸
排水量160トン887トン
船長・馬力約55メートル・45馬力約76メートル・150馬力
乗員35名
目的積荷の運搬/米・砂糖(400挺の小銃と弾、etc)紀州藩命で長崎の軍艦購入問題の解決へ

鞆の浦

鞆(とも)は、古来瀬戸内最大の商港のひとつとして栄えている。
枡屋という廻船問屋がある。たまたま海援隊簿籌管(ぼちゅうかん)の長崎人小曽根英四郎がこの亭主清左衛門と翻意だったので、隊員三十四名はここを宿所とした。
「船の仇を討つ」
と、竜馬は一同に宣言した。

竜馬がゆく7

潮待ちの港・鞆の浦は、潮位の変化で海流の方向が変わる瀬戸内海で、航海しやすい潮まで待つ港として栄えていました。紀州藩との交渉はこの鞆の浦で四日ほどおこなわれました。

隠れ家付きの宿 桝屋清右衛門宅

坂本龍馬が宿泊したのは「桝屋清右衛門宅」と言われていましたが、その部屋は長年発見できませんでした。
そこで、1階の部屋の全ての天井を棒で突いてみたところ、一か所動く板を見つけました。
階奥の天井板を上げると、階段が出現して、登ってみると小さな踊り場に出て、左手にある階段を降りると、8畳の広さの部屋にたどり着くと言う、ちょっとした迷路となっているそうです。
龍馬1人が使っていたこの部屋には明かりとりにも逃避にも使える窓もしつらえてありました。
現在この屋敷は、一般に公開されています。

龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅・雑貨店MASUYA│広島県福山市・鞆の浦
龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅(ますやせいえもんたく)は、広島県福山市・鞆の浦で、坂本龍馬が身を潜めた隠れ部屋の一般公開をしています。オリジナルのご当地雑貨や、鞆の浦土産を集めた雑貨店MASUYAも併設しています。

龍馬はこの部屋でせっせと手紙を書き、事故の様子を各地に伝えていきました。

宮崎駿氏のアイデアで蘇った龍馬の会合場所

会合場所 魚屋萬蔵宅

龍馬が紀州藩の船長と賠償交渉を始めた場所は「魚屋萬蔵の邸宅」
海援隊の滞在場所と紀州藩が滞在する円福寺とちょうど中間地点なので互いの都合が良いと選ばれました。

近年では空き家となり、取り壊しの話も出ていたところ、スタジオジブリの宮崎駿監督がこの建物のことを知ります。
次回作の構想をねるために鞆の浦を訪れていた宮崎氏とスタッフは、三ヶ月ほどかけて竜馬のイメージを重ねたリノベーションのデザインを完成させます。

宮崎駿氏にリノベーションのスケッチ・デザイン原画をくださいとお願いすると、そのうちの一枚を破り離そうとしました。そこで「すみませんが、全部もらえますか?」とスケッチブックごと貰い受けできました。そして、このスケッチブックを頼りに改装をする話にすすんでいきます。


宮崎駿監督直筆のスケッチを元に改装をすすめて、2010年に宿・食事処「御舟宿いろは」として生まれ変わっています。

御舟宿いろは|公式HP
御舟宿いろはの公式HPです。 築220年、坂本龍馬ゆかりの町家、宮崎駿監督のデザインにより現代へと甦りました。
鞆の浦の常夜燈 江戸期より残っている灯台

龍馬の言い分

龍馬側の言い分としては、「鉄砲400丁など銃火器3万5630両、金塊など4万7896両198文が沈んだから、合わせて8万3526両198文を支払ってくれ」というものでした。
※8万3526両198文は現在価値/一両10万円換算で約84億円相当

最終的に、紀州藩は龍馬側に賠償金7万両を支払ったのですが、2006年に行われたいろは丸の沈没場所の調査では、龍馬が主張した鉄砲などの銃火器は一切発見されませんでした。

ある日、竜馬は隊士の連中をつれて丸山の花月にやってくると、お元のほか馴染の芸妓十数人を呼び、「唄をつくった」と、三味線をかかえ、自分が作詞作曲した唄をうたいだした。
芸妓たちはおもしろがってそれに和し、すぐそれが長崎の花街で爆発的に流行した。

竜馬がゆく7 
船を沈めた そのつぐないは
金を取らずに 国を獲る
   よさこい よさこい

紀州藩の船長が後藤象二郎を訪れ、謝罪したので許すことにした。
積み荷のほか、水夫たちの持ち物に至るまで、すべてを弁償すると船長が紀州藩側の意向を伝えた。

坂本龍馬が5月29日に記載した手紙。

<竜馬暗殺>紀州藩黒幕説へ

<根拠>
天下の徳川家御三家紀州藩が脱藩集団にやり込められ7万両を支払わされた。いろは丸事件で遺恨を持った紀州藩は、重臣・三浦休太が新撰組に指示を出して龍馬を殺害した。