長崎の女傑 大浦お慶

幕末の女性

長崎に、油屋町という町がある。西浜町とならんで大商人の店が多い。大阪でいえば船場、江戸でいえば日本橋あたりに相当するかもしれない。
その油屋町に、大浦お慶という日本茶の輸出で大身代をきずいた女商人が住んでいる。
「その家を借りて会談してもらう」

坂本竜馬と後藤象二郎の初会談・慶応3年(1867年)1月13日(文は竜馬がゆく7 P134より)

竜馬とお慶は、貿易についての意見を交換しあった。
「茶だけではつまらん。輪島の塗り物がよかばってん。異人さんに見本を見せると、こりゃよかと言うてくれた。ばってん、輪島は加賀さまのご領内で、どげんしても品物を寄せるわけには参りませんたい」
と、お慶はいった。
「こげんこつになると、三百諸侯が邪魔になります。」
お慶はすごいことをいう。

「みすみす日本に利がある、というには、いまの日本の制度ではどうにもなりまっせん」
「国をいっぺん壊して建て直さぬといかんとお慶さんはいうのか」
「うちらの立場からいえばね」
「しかし、そんなことを言うちょると幕府に聞こえると打ち首だぞ」
「貴方ならだいじょうぶ。もともと貴方は商い経営は表向き、マコトは天下を狙う大伴黒主(おおとものくにぬし)」
お慶は、ころころと笑った。竜馬はなぶられているような感じがする。

竜馬がゆく7 P165

大浦慶

大浦慶は、文政11年(1828年)の生まれであるから、坂本龍馬の8歳上ということになる。
長崎の油商・大浦家の娘として生まれ、16歳の頃家業の傾きや天保14年10月(1843年)大火による大損害を受け、若くして大浦家再興を強く決意。油商に見切りをつける。
20歳の頃、上海に密航したという説があり、海外へ向けての貿易で、茶の輸出を考える。
1853(嘉永6)年、慶は佐賀の嬉野茶の見本を出島のオランダ人・テキストルに託し、海外受注を待つこと3年、イギリスの貿易商人・オールトからから巨額の注文を受ける。これを機に彼女の茶貿易は順調に発展していく。

亀山社中のパトロンに

大浦慶は、坂本龍馬らの志士たちをも支援し、亀山社中(のち海援隊)の面々も慶の屋敷によく出入りしていたという。またイギリス商人のトーマス・グラバーや大富豪・小曽根乾堂(こそねけんどう)らとも親密な交流があった。

大浦慶の男を見る目

十六歳のとき、大火事で店の大半を焼失。後継ぎとして「蘭学を学びに長崎にきていた天草の庄屋の息子の幸次郎(秀三郎とも)」を婿養子に迎え入れて、店の再建を目指すことに。
しかし、この旦那を一目見た慶は「商売に向いていない」と判断、祝言の翌日に追い出しました。
商家の跡取りとしての結婚でしかも、店も財産も失い頼るべき父もいない中で、十六の娘が下した決断と思えばかなりの度胸がいったに違いありません。事実、その後は婿を立てず、ひとりで長崎一の商人になります。

明治に入り横浜港から輸出される静岡茶が主流になり、長崎の大浦慶の商売が徐々に衰退していた頃の明治4年、肥後藩士・遠山一也から煙草売買の保証人になってほしいと懇願に来ます。
彼の一心な姿にほだされ、オルト商会から手付金三千両を受けとる保証人になったことで裁判沙汰へと巻き込まれることに。
お慶はただ連判したという理由によって千五百両近い賠償金の支払いを命じられます。
この時、かつてお慶に世話になっていた志士たちは明治政府の要職にいましたが、だれも助けの手を差し延べることができませんでした。

お慶の商売相手