枡屋喜右衛門と京都気質

江戸落語の世界(芸能・娯楽)

ふと河原町の往来で会った顔見知りの町人が
「枡屋はん、ちかごろ繁昌どすなぁ、よろしおすな」
となにげなくいった。
町人姿の俊太郎は、ぎょっとした。
「いえいえ左様なことはござりませぬ。まだ祇園会の前で、夏枯れは早いはずでございますに、商いはすっかりひまでございます」
「へへ、うまいことおおっしゃる。ちかごろは長州様の御用で、お忙しそうでおへんか」

竜馬がゆく5 P67

古高俊太郎/枡屋喜右衛門

枡屋喜右衛門

文久2年(1862年)閏8月14日、京都河原町四条上ル東で筑前福岡藩黒田家御用達・枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。古道具、馬具を扱いながら早くから宮部鼎蔵らと交流し、有栖川宮との間をつなぐなど長州間者の大元締として諸大名や公家の屋敷に出入りして情報活動するとともに、武器の調達役にあたる。
元治元年6月5日早朝に捕獲され、多数の武器や血判状を押収。
7月20日(8月21日)の禁門の変のどんどん焼けで獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首されます。享年36歳。

枡屋喜右衛門と池田屋騒動

八月十八日の変以降、京都で活動できない長州藩が一発逆転の作戦として京都御所強襲と用心暗殺を計画。
そこで、枡屋喜右衛門(古高俊太郎)に道具屋の商売を利用して武器類の調達をまかせ、大量の火器や武器を調達してもらう。
同様に長州藩に商売の御用聞きをしているフリで、情報伝達係としても活躍。
しかし、町の噂をきっかけに新撰組に知られ(俗説)元治元年6月5日早朝に捕獲され、多数の武器や血判状を押収されます。

そして桝屋喜右衛門は、壬生屯所の前川邸にある蔵に閉じ込められ、新選組局長の近藤勇、副長の土方歳三から厳しい取調べを受けたと言います。
取り調べというか、ひどい拷問にあって、長州派の計画を自白したと言われています

枡屋喜右衛門の自白内容

◎ 長州藩が御所に火を放ち
◎ 中川宮を幽閉
◎ 京都守護職 松平容保らを殺害
◎ 天皇を長州へ連れ去る

といった事を自白したとされていますが、自白には応じていないとする説もあります。

京都人の気質

関西圏の人なら、なんとなくわかる「京都人気質」。特に碁盤の目の中と言われる市の中心・洛中(中京区・上京区・下京区)生粋の京都人は、独特な気質があるといわれます。

本人たちは、「帰ってほしいときにお茶を出す」というのは、子供の時からそれが「帰る合図」と知っているので「嫌味なことをされた!腹黒い!」という認識は全くないそうです。
それでも近隣圏から見るとわからないことだらけ。

「〇〇ちゃんピアノ上手になりはったね」
  (ピアノの音がよく聞こえてやかましいから注意してね)
「おこしやす」と「おいでやす」
  (山を越えてわざわざ来ていただいたので「おこしやす」と丁寧なごあいさつ。一見さんには「おいでやす」と使い分けることも)
「いい時計してはりますな」
  (時計を見てください!長すぎるのでそろそろお帰りください)
「老舗には『場違いの部屋』がある」
  (例えば掛け軸に「梅にウグイス」ではなく「桜にウグイス」が掛けてあるなど、常識と外れたしつらえの部屋に通されると、「場違いな客」という意味で早々に退散するのが礼儀。追い返されるにも教養がいるのが京都風。)

京の茶漬け(上方落語)

京都のお家にお邪魔して帰ろうとすると奥方から「何もおへんですけど、ちょっとお茶漬けでもどうどす?」と言うのは、来客者に「気遣い少なくてすみませんんでした」という単なる挨拶文句で茶漬けが出ることはないと知った男。
そこで一度この茶漬けを食べてみようと、京の知人宅を尋ねると、主人が出かけている。「では、お帰りまで待たせてもらいましょう」と長居をすることに成功。お腹がすいてきた話を振っても奥方は気づかないふりを決め込んであしらうことに取り合ってくれない。時間も経って仕方なく「ではお邪魔しました」と帰ることにすると奥方はいつもの癖で「ちょっとお茶漬けでも」と口走ってしまった。
「それなら遠慮なく」と座り直す男。仕方なく奥方は1膳飯と漬物をよそってって出したが、ペロリと平らげてしまい物足りない。ご飯が空になったことを伝えようと「このお茶碗はどこで買いなさった」と茶碗の中を奥方に向ける。するとお櫃の底を向けて「このお櫃と一緒に近所の荒物屋で」

wikipediaに『原話は、1775年(安永4年)に出版された笑話本『一のもり』の一編「あいづ」。同種の笑話は、十返舎一九の『江戸前噺鰻』(1808年/文化5年)に「茶漬」の題でみられる。古くから同演題で演じられたとみられ、天保年間から残る大坂の寄席の根多帳に『京の茶漬』の記載があるという。』
その時代から京都人気質があったのでしょうか?