吉田稔麿

吉田稔麿 徳川幕府

稔麿は、元結を結び始めた。
が、ふしぎと三度結び、三度とも切れて四度めにやっと結べた。
(おかしいな)
と、乃美老人はだまってみている。
「今宵、池田屋へ行くのをやめたらどうだ。元結が三度も切れるとは、不吉ではないか」
「行きます」

竜馬がゆく5 P89

吉田稔麿

吉田 稔麿(よしだ としまろ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名。
久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称され、さらに入江九一を入れて松門四天王ともいう。享年24。

吉田松陰 「吉田稔麿の識見は(高杉)晋作に髣髴す。ただ些才あり。これ大にその気魄を害す」
渡邊嵩蔵 「吉田稔丸は賢き人なり」
品川弥二郎 「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」
伊藤博文 「(自分と比べるとどれくらいの人物かという問いに)どうして比べることができようか、全く天下の奇才であった」
近藤勇 「長州の士、吉田稔麿なるものあり。その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものなり」

吉田稔麿

池田屋事件の吉田稔麿

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で池田屋に稔麿も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。
(俗説1)しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいて、吉田は奮闘の末、討ち死に。
(俗説2)最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死に。
(俗説3)また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃した。
稔麿の最期については諸説あります。

長州藩士が狙われた池田屋事件で、襲われた多くの藩士が長州藩屋敷に戻ったが門を開けて助けることはなかったと言われています。

「市中の長州藩浪人は長州藩が操っている」「倒幕や市中に放火をする計画は長州藩が指示している」
といった疑惑の目を向けられることを恐れ、門を開けて助けなかったという説もあり、何もしていない長州藩士が一方的に無残に、会津藩・新撰組に襲われたことの演出にもなりました。
一方的に襲われた藩士の無念を晴らすため、長州藩は大きな動きに移るきっかけになりました。