士族の商法

士族の商法 江戸時代の常識・風習

後藤は、長崎や上海で手あたり次第に軍艦や銃砲を買っているが、せいぜい支払ったのは樟脳と交換した三万両程度のもので、あとは丸山で豪遊するばかりで異人どもにも金を支払っていない。
「軍艦を買う」と藩に金を要求しては丸山へ行って一斗樽から金銀をぶちまけるようなやりかたで遊んでいる。
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計一万一千八百十六両余り
このほか、内外商人からの純粋負債が十八万両ばかりあり、さらに使途不明の金も五千両ほどもある。
「いったい、これはどうなさるおつもりなのです」と(岩崎)弥太郎が後藤を詰問すると、後藤は「わしゃ、知らん」と言い、やがてニヤリと笑って、
「おンしを抜擢した理由がわかったか」といった。要するに抜擢の真相は、後藤の汚職的な浪費を藩に知られぬよう弥太郎に始末させるためであった。

竜馬がゆく 7 P224

後藤象二郎は、慶応二年(1866年)に藩命で薩摩、長崎に出張。さらに上海を視察して海外貿易を研究しました。坂本龍馬と深く交わるようになったのはこの頃といわれています。

士族の商法

明治維新になり、武士という職業がなくなり 士族という身分に変わりました。
わずかな額の公債を支給されて失業した士族は、生活のために慣れない商売を始めましたが、失敗する例が多かったところからいうことばです。
今まで武士という家柄だけで給料が入っていましたが、明治9年に『秩禄処分(ちろくしょぶん)』という法律で廃止となってしまいます。
その救済として『士族授産(しぞくじゅさん)』として、職を失った士族にとられた明治政府による一連の政策が行われ、
 農・工・商業への転職の推進
 官林荒蕪こうぶ地の安価での払い下げ
 北海道移住の奨励など。
多数の商売斡旋をしていました。

商売を始める士族には、起業資金の貸付も行われましたが、商売の駆け引きやコツ、愛想など不慣れなことばかりで失敗した者が多く、『士族の商売』と笑われる事となりました。

一方で、下級武士から三菱を作った土佐藩・岩崎弥太郎や、多くの会社を起業した渋沢栄一、五代友厚らも、この時代にスタートしました。

士族の商法

永島辰五郎(歌川芳虎)画
解説/
士族の経営する菓子屋のお品書きに、庶民の立場から西南戦争の不平士族や役人等を調刺した図。
日々出ぱん 旅費鳥せんべい」は官吏が九州へ出張して莫大な旅費をとっている事
毎日新製 瓦斯提邏(かすていら)」には2,000~3,000人の士族が各地で巡査に転職できたものの、西南戦争に動員されてしまった。

落語『素人鰻』

あらすじ

元旗本の武士が汁粉屋をやろうと店を探していると「神田川の金」という、贔屓(ひいき)にしていた鰻さきの職人に出会う。金さんの勧めでいっしょに鰻屋を開業することにした。腕がいいが、酒癖の悪い金さんも酒を断って店を手伝ってくれることに。
開店の日に祝いの酒だと主人の友達が金さんに飲ませたところ、だんだん悪い酒癖が出てきて暴れ出し、店を飛び出してしまう。

反省した金さんは酒を飲まず一生懸命働きだし、腕はいいので店も順調になる。
そのうちに、金さんは夜中に家の酒を盗み飲みして、またもや悪口雑言の末、店を飛び出してしまう。何日か続いてもう帰って来なくなった。

 困った主人は仕方なく自分で鰻をさばこうとし、捕まえにかかるが捕まらない。糠(ぬか)をかけたりしてやっと一匹捕まりかかるが指の間からぬるぬると逃げて行く。
なおも鰻を追って行く主人。それを見て女房がどこへ行くのかと声をかける。

主人 「どこへ行くか分かるか。前に回って鰻に聞いてくれ」
(昭和61年 NHKラジオ 桂文楽)


滑稽話部分のみの落語「鰻屋」

原話は、安永6年(1777年)に刊行された『時勢噺綱目』の一遍である「俄旅」。
こちらは、士族の話は入らず「素人が鰻屋を始めた」ストーリーのみです。

あらすじ

新しく開業した鰻屋の主人が、上手に鰻を捌けないどころかつかむこともできずに四苦八苦している。それを聞いた若い者二人が「おっさん、鰻ようつかまえんと困ってるの肴に一杯飲んだろ」とやってくる。
さっそく生きの良いうなぎを注文して、高みの見物をするふたり。仕方なく主人は注文された通り、鰻を捕まえようとするがなかなかうまいこといかない。
主人は前に出る鰻を捕まえながら「だれぞ、下駄を出して」店の表に出てしまう。
「どこへ行く」と聞くと「前回って、鰻に聞いてくれ」

落語『士族の商法/御膳汁粉』

三遊亭円朝作と言われています

あらすじ

明治の初め、禄をはなれた士族がいろいろな商売をはじめるなか、ある殿様が、お姫様や家来の三太夫らと汁粉屋を開くことにした。
 客が店に入れば、三太夫が迎え出て、「何の汁粉を食べるのだ」と聞く。御膳汁粉というのがふつうの汁粉で、ほかには紅餡(あん)や塩餡などがあるらしい。
 そこで、客が塩餡を注文すると、三太夫は奥の殿様へ、「御前、町人が塩餡をくれろと申しますが、いかが仕りましょう」、「くれろというなら、やるがよい」。
 しばらくすると、お姫様が給仕にあらわれ、「これ、町人。かわりを食べるか」
「へい、ありがとうございます。どうぞ頂戴いたしたいもので……」
「ならば、少々ひかえておれ」
……と、これじゃあ、どちらが客だかわからない。


幕府倒壊した直後、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)がとある武家屋敷の前を通りかかると、そこには「この内に汁粉あり」の看板がありました。気になって中に入ってみると、屋敷の家来がうやうやしく取り次いで、殿さまがたすき掛けであんをこしらえていたり、姫君が小笠原流で汁粉を運んできたりと、場違いな雰囲気の汁粉屋でした。円朝はそそくさと退出し、この体験をもとに円朝がつくった噺が「御膳汁粉」。

成功例

 落語「素人鰻」「御膳汁粉」で今も語り継がれるように、明治の廃藩置県で士族となった旧武士の始めた飲食の商売は多くが庶民の笑いのたねとなりました。
中には成功例もあり、その一つが牛乳店でした。東京の真ん中の大名・旗本の屋敷跡で牛を飼い、乳を搾って販売します。文明開化で西洋の食生活があこがれの目で見られる中、榎本武揚(えのもと・たけあき)や大鳥圭介(おおとり・けいすけ)ら旧幕臣、新政府の大官の松方正義(まつかた・まさよし)、山県有朋(やまがた・ありとも)、副島種臣(そえじま・たねおみ)たちも牛乳店を経営。
牛乳の殺菌技術がなかった当時は、搾乳・販売は消費者のいる都心近郊が都合良かったのです
 毎日新聞 2021/12/23 東京朝刊 より抜粋