孝明天皇崩御

朝廷・宮家

孝明天皇崩御 慶応2年12月25日(歴史人201912)

かねて近侍の子供のなかに天然痘にかかった者がおり、帝は平素
「感染るのではないか」
と怖れられていたが、そのいわば御予感があたった。十七日、お顔が腫れはじめ、しばしば吐き気がおそい、のどのかわき甚しく、そのうえ痰が切れず、食欲が皆無になり、ついに二十五日夜十一時、崩御された。

竜馬がゆく7 P199

孝明天皇の治世は21年にわたったが、その間で実に7回も改元が行われている(弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応)。それだけ変化の激しい時代に、孝明天皇は朝廷のトップとして、内憂外患の真っただ中につねに身を置いたといってよい。
江戸時代最後の元号となった「慶応」。その元年に、孝明天皇はこんな歌を残している。
「人しらず我が身一に思ひ尽くす 心の雲の晴るるをぞ待つ」

孝明天皇暗殺説

将軍宣下わずか二十日後に孝明天皇崩御

徳川慶喜に将軍宣下を下してからわずか20日後の慶応2年12月25日、孝明天皇は突然崩御しました。
死因は当時流行していた天然痘と伝わっていますが、毒殺説が根強くささやかれています。
罹患後に一時期回復に向かっていた症状が不自然に急変したことが「倒幕派が孝明天皇を葬った」という根拠になっています。

  • 12月15日に発熱して吹き出物が出始める。
  • 17日に待医たちが痘瘡だと診断を下す。塗り薬をつけ、漢方の「抜毒散」を服用する。
  • 23日頃には吹き出物のウミが出切って、通常の食事をとるにまで回復。
    しかし
  • 24日の夕方から事態が急変。突然下痢と嘔吐の発作に苦しむようになり、脈も微かなものに変化。そして四肢が冷たくなる。
  • 25日に孝明天皇は突然の死を迎えることに。

孝明天皇崩御時の時勢

徳川慶喜が15代将軍に就任

慶応2年12月5日(1867年1月10日)、これまで再三、将軍就任を拒んできた徳川慶喜が15代将軍に就任。
<(オモテの)就任理由>
(1)慶応2年11月27日に孝明天皇から直接に将軍宣下の内勅を下される。(慶喜も孝明天皇に言われると、無碍にはできない)
(2)諸外国と約束した兵庫開港の期日が1年後の慶応3年12月7日と迫り、様々な外交問題が切迫している。
との考えから、将軍位拝任を決意しました。

薩長土連合が実現

年初(慶応2年1月末)に坂本龍馬の仲介で薩長同盟が成立。幕府軍との戦いを終えた長州軍の復権に薩摩藩がバックアップする条約を締結して、第二次長州征伐をはねのけて長州藩復権を果たします。
土佐藩も徳川幕府寄りの藩政から、時勢をみて藩の方向を見直しはじめ、後藤象二郎らが軍備改革などに取り掛かります。 翌年の後藤象二郎と坂本龍馬の面会から、土佐藩も日本改革の一役を担う立場になっていきます。

暗殺主犯は?

主犯として名前が挙がる岩倉具視だが?

孝明天皇が崩御されたと聞いて、岩倉は驚きを隠せず、国学者の坂本静衛に宛てた手紙で、「仰天恐愕、実に言うところに知らず」と嘆き、「無量の極に至れり」と無念さを吐露しています。
「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」とも語っており、
岩倉具視は、孝明天皇に願いを立てて、実行しようとしていた(なにかの)計画が絵に描いた餅になってしまったと嘆いているのです。
また、孝明天皇を暗殺するなら、その後岩倉自身が主導権を取って皇室運営をするはずですが、それには至っていません、

南北朝時代から南朝反撃の一手

京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った延元元年1月23日(1337年)から、両朝が合一した元中9年11月19日(1392年/明徳3年閏10月5日)以来、約475年。京の都は北朝の天皇が代々司ってきました。
幕末の今、南朝の血筋が地方の武家や豪族の庇護のもと血縁を引き継いでいたといううわさ。

天下の副将軍・水戸光圀が作らせた『大日本史』。南朝正当論の決定版というべき書物のもと<水戸学>という思想が生まれ、北朝・現幕府軍に冷遇されいている外様大名や、藩が南朝水戸学に飛びつき、討幕の力となります。八月十八日の政変で長州に降った7人の公家(七卿落ち)は、「このまま北朝の孝明天皇に任せるわけにはいかない」と長州で南朝の末裔と会う。
南朝の末裔を囲っていた長州と、南朝の家臣の末裔と言われる西郷隆盛率いる薩摩が計略を立てて、孝明天皇を排除して次代天皇を幕末のゴタゴタのなかで、南朝天皇に差し替えてしまおうという計画であった

禁断の幕末維新史 加治将一著 水王舎

その後徳川慶喜は、自分の思う方向に政治を舵取り

孝明天皇の崩御によって、徳川慶喜は大きな足かせが無くなった事になりました。
「将軍の責任を持って断行する」との約束の兵庫開港は、「慶喜の独断を許すまじ」と島津久光、山内豊信、伊達宗城、松平慶永らが四侯会議を開くも、強固な攘夷論者だった孝明天皇の後ろ盾がなくなったことで、会議は慶喜の圧勝に終わりました。

孝明天皇崩御翌日に、14歳の若さで天皇位に就くいた明治天皇の皇族に対して「兵庫開港の勅命」を要求。30時間も粘ったと語られるほど強引に勅許をもぎとっています。