その時である。
竜馬がゆく2
嘉永七年十一月五日の地震が、江戸・相模・伊豆を襲ったのは。
「いかん。お冴え中止じゃ」
とっさに大刀を拾い上げた。立っていられないのだ。
どすん、と床が沈むような感じであったが、すぐ横振れになった。壁土がばらばらと落ちはじめお冴えの手を掴み飛び出すと、離れの屋敷が大音響ともに崩れ落ちた。
稲むらの火
俗に言う安政の大地震は、年号が前の嘉永7年11月 に起きた大地震から安政2年(1855年)10月2日の安政江戸地震までを指す地震活性期を指します。
この時の津波に襲われた経験を元に言い伝えられた「稲むらの火」は濱口儀兵衛(梧陵)の『濱口梧陵手記』に記されています。

祭りをひかえた海沿いの村。
強くはないが、不気味な地震の揺れを感じたのは、高台に住む庄屋の五兵衛。
海を見たら、海水が沖に向かって引いていく。
今まさに浜辺にいる村人たちは、みな祭りの準備に夢中である。
「――津波が来る。」
そう直感した五兵衛は、収穫したばかりの稲むらに次々火をつけた。
稲むらが燃えているのに驚いた村人たちは、火を消しに高台の田んぼに駆け上がる。
その時、津波が村を襲い家々を飲み込んだが、村人たちはみな高台にいたので助かったのだった。
五兵衛が自分たちを助けるために、大切な稲を燃やしたことを知った村人たちは深く感謝し、この話を語り継ぎました。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治三陸地震津波の情報を聞き、「稲むらの火」の作品を作ったため、多少デティールが変わってているが、英語作品 “A Living God ” として世界発信しており、海外でも防災向け教材として用いられています。
小泉八雲 「稲むらの火」要約
浜口梧陵
巨大津波から村人を救った命の火
1854年12月23日。大地震が起きたとき、紀伊国広村にいた浜口梧陵(当時33歳)は海岸の異常な波の流れを観て、津波が襲ってくると思い、村人を神社の境内に避難させます。若者たちと一晩中村と海の警戒に当たっていましたが波も収まり、やがて村人たちは家に戻っていきました。
ほっとしたのもつかの間、翌日の夕方に再び激震が襲いました。「激烈なること前日の比にあらず」と後に記した大地震で、海面が持ち上がり5メートルの高さに及ぶ大津波が村を襲いました。
浜口梧陵もこの大津波に飲まれてしまいましたが、かろうじて丘まで逃げることができました。しかし村はあっという間に破壊され、家族が見当たらない人々でパニックになっています。
夜になっても津波は収まらず、もっと高台に逃げるしかないと判断した浜口梧陵は、村人を正しく高台に導くように稲村につぎつぎと火をつけて、皆の目印として夜道を安全に高台まで導きました。
大津波がに襲われた村人のために、浜口梧陵は、お米を借りて被災者の食糧を確保。鍛冶屋に命じて急いで農具を作らせ、漁師には網や船を手に入れて再び元の仕事ができるように尽力しました。
道路や橋の復旧工事の指揮を執ったり被災者の仮の宿を準備したりなど、献身的な救援活動を続けました。
浜口梧陵
文政3年6月15日(1820年7月24日)和歌山生まれ。紀州湯浅の醤油商人である濱口分家の長男として生まれ、12歳で本家である千葉県銚子の醤油業(現ヤマサ醤油)の養子となります。
開国論者となり海外留学を志願しますが江戸幕府に認められず、30歳で帰郷。
33歳の時に当主として、七代目濱口儀兵衛を名乗りました。
広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て彼の私財で賄われました。
商人の身分ながら、幕末から紀州藩勘定奉行をはじめとする役を歴任。1880年(明治13年)には、和歌山県の初代県会議長に就任。
明治18年にかつての夢だった世界旅行に行くも、アメリカ・ニューヨークで病没。享年66
11月5日は「世界津波の日」
平成27年12月の国連総会において、毎年11月5日は 「世界津波の日」 に制定されました。
安政元年(1854年)11月5日、安政南海地震による津波がいまの和歌山県広川町を襲った際、濱口梧陵が稲むらに火をつけ、津波から逃げ遅れた村人を高台へ導いて、多くの命を救った逸話 「稲むらの火」 の故事が、小泉八雲の英語作品 “A Living God ” として世界発信しています。
「世界津波の日」制定の由来となった濱口梧陵の精神を全世界に発信し、次世代に過去の災害の教訓を伝えることで、津波防災意識のさらなる向上を目指していきます。