ボヤ騒ぎ_防災

江戸時代の常識・風習

嘉永七年十一月二日

夕刻、土佐藩の鍛冶橋屋敷から火が出た。道場にいた竜馬は急いで身支度をし駆けつけるとすでに火が消えている。
「幸い作事小屋のカンナ屑が燃えたところで消し止めました」
「それぁよかった」その時パラパラと雨が降って来た。
「傘をお持ちなさいまし」門番から鍛冶橋山内と書いた傘を借り、判定を出ると、女がちかづいてくる。
「お傘に入れてくださいまし」お冴が大胆に身を寄せてくる。
「ほんのそこまで、一丁先の八幡社に今夜泊まっています。」亥の刻に落ち合いましょうと別れる。

道場に帰ると、「大変な騒ぎでございましたねぇ」とさな子が皮肉をいう。
重太郎の命令で火事の様子を見に行った千葉家の小者が相合傘を見つけて兄弟に報告してしまった。

(今夜、忍ぶか)決心が決まらぬうちに、身のうちが燃えるようになる。

memo 江戸の防災

木造建築で密集した江戸の町は、火災ほど恐ろしいものはなかった。一度火の手が上がると防ぐ手立ては無く、風下の家をたたき壊して火の手をその手前で食い止めて、ただ鎮火を即すのみだった。
予防として、町々の間を広く取った道路が「広小路」。十町に1つの割合で設けた「火の見櫓(やぐら)」。ぼやで消火できるよう雨水をためておく「天水桶」。

1718(享保3)年、テレビドラマなどでも有名な南町奉行の大岡越前守忠相が町火消設置令を出します。これが町火消しの組織で、火消しの代名詞「いろは四十七組」。語呂の悪い、「へ・ら・ひ」は「百組・千組・万組」後期にできた「本組」の48組あった。

三代家光が16の大名家を指名して設置した組織が「大名火消」。

四代将軍家綱は4人の旗本に命じて組織したのが「定火消」で、江戸城周囲の十カ所に火消屋敷を設けて、人足をたくさん常勤させていた。
出初式を初めて行ったのは、この定火消だとされます。

定火消の人足である臥煙(がえん)は、女性にも人気の職業で、江戸落語「火事息子」は、子どもの頃から火事が好きだった質屋の若旦那が、実家を勘当された挙句、臥煙(がえん)になり、やがて実家の近所で起きた火事に出動して実家を守るという話です。