維新の遺伝子を受け継いだ・吉田茂

文化人教養人

「坂本君、きみは日本の政権に野望をもっているのか」
「おや」
竜馬は、後藤を見た。正直なおどろきである。後藤(象二郎)という男は度量広大な人物とみていたが、そんな推量をするあたり、やはり一官僚にすぎないかと多少失望した。
「ないさ」竜馬は火鉢を引き寄せた。なるほど日本の危機をすくうために徳川幕府は倒したい。しかしそのあとに樹立される革命政権の親玉になるなどは、竜馬はまっぴらである。
「おれにはもっと大きな志がある」

竜馬がゆく7 P187

吉田茂

吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 – 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓・竹内。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。

明治維新当時の先輩政治家たちは、国歩艱難裡に国政に当り、よく興国の大業を成し遂げたのであるが、その苦心経営の跡は、今日よりこれを顧みるに歴々たるものがある

吉田茂 語録

実父・土佐藩 竹内綱

竹内綱は土佐藩家老・山内氏(伊賀氏、宿毛領主)の家臣竹内庄右衛門吉管の子として生まれました。
慶応2年7月(1866年8月)のある日、宿毛から16kmほど離れた阿満地浦(現在の安満地浦)にイギリス軍艦があらわれて悠々と停泊しました。
当時、第二次長州征伐が行われていた直後で内乱と外圧に神経をとがらしていた時代。
イギリス軍艦の事を知った宿毛領主・山内は、竹内綱に兵隊を率いてイギリス軍艦を追い返すように指示をしました。

竹内綱は強硬手段で攻撃をする前に、単身で黒船に乗り込んで言葉の通じない相手と悪戦苦闘の談判をすることに。
話をまとめると、どうやらイギリス軍艦は海洋測量目的で、翌日には出港予定であること知りました。おかげで、イギリスと無駄な対戦の必要が無く、争いを回避することができました。
しかし、土佐藩・宿毛領内の上層部からは「領主からの指令を怠った」「船内で応対したイギリス人に酒席のもてなしで酩酊した」ことなどを問題視。竹内はあやうく切腹処分となるところでした。(その後誤解が解ける)

時は明治に移り、竹内綱は1878年(明治11年)板垣退助の腹心として反政府陰謀に加わった罪で長崎で逮捕されて投獄となります。竹内綱の妻はそのとき身ごもっており、竹内の親友・吉田健三を頼って東京に。9月22日に東京神田駿河台で竹内の五男・茂を生みました。

育ての親・越前藩 吉田健三

吉田健三は、1849年、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として誕生。絶家していた渡辺家の一門・吉田家を再興するため吉田姓に。1864年に脱藩して大坂で医学を、次いで長崎で英学を学ぶ。1866年にはイギリス軍艦でイギリスへ密航し、2年間滞在して西洋の新知識を習得しました。(イギリス密航留学は当時のトレンド)

1868年に帰国し、明治に入って横浜の英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し、日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買を行いました。

その後独立し英会話学校を手始めに様々な商売を始めてめざましい業績をあげます。
1872年には東京日日新聞の経営に参画。自由民権運動の牙城であった東京日日新聞を通じて、板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々を経済的に支援。特に竹内綱とは昵懇の関係となりました。

1881年8月に、竹内の五男・茂を養嗣子(跡継ぎのための養子)として引き取りました。
生来心身頑強な吉田健三でしたが、1888年に父・謙七が死去した頃に不意の病に倒れ、横浜にて急死してしまいました。享年40。
養子となっていた茂ですが、その時わずか11歳。茂には50万円もの莫大な遺産が残されました。
(明治初期、1両=1円で交換がスタートしました。明治30年頃の1円は令和の4,000円〜2万円程度の価値といわれるので、その試算で当時の50万円は現在の20億円〜最大約100億)

義父・薩摩藩 牧野伸顕

大久保利通の次男として生まれる

1861年11月24日(文久元年10月22日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士で維新の三傑の一人・大久保一蔵(後の利通)と妻・満寿子の次男として生まれる。
生後間もなく父・利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となりますが、1868年(慶応4年)に吉之丞が戊辰戦争における北越戦争で戦死したため、名字が牧野のまま大久保家で育ちました。

明治4年、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学で学ぶ。
約3年で帰国後、1880年(明治13年)東京大学を中退して外務省に入省。ロンドンの日本大使館に赴任し、渡欧していた伊藤博文の知遇を得るきっかけになりました。

牧野伸顕の長女・雪子は、1909年(明治42年)に後の内閣総理大臣である吉田茂とお見合いし結婚します。
このとき雪子は20歳で、吉田茂は領事官補時代の30歳。吉田茂と雪子との間には2男3女をもうけます。
熱心なカトリック信者の雪子は、清泉女子大学の前身である清泉寮学院の開設に尽力しました。