第二次長州征伐

竜馬がゆく
坂本龍馬によって作成されたとされる長州征討の図。

「坂本さんに、わが藩の半分をまかせるゆえ、幕府海軍を制圧してもらえんだろうか。あとの半分はわしがひきいる」と、高杉はいった。
作戦と部署が決まった。
長州海軍には四隻の軍艦がある。これを二つに分けて第一艦隊と第二艦隊とし、第一を高杉が担当し、第二を竜馬が担当することになった。
「坂本さんは、門司の襲撃をたのみます」と、高杉はいった。

竜馬がゆく 6巻 P406

幕府軍 徳川家茂(1846生/20歳) 徳川慶喜(1837生/29歳) 勝海舟(1823生/43歳)
長州藩 高杉晋作(1839生/27歳) 伊藤博文(1841生/25歳) 井上馨(1836生/30歳)
亀山社中 坂本龍馬(1836生/30歳)菅野覚兵衛(1842生/24歳)

龍馬は長州軍として戦っていない?

慶応二年(1866年)6月16日
坂本龍馬は高杉晋作に長州軍に帯同しての参戦を申し入れて了承されます。
翌17日小倉口で戦闘が開始されると、亀山社中が乗ってきた乙丑丸(いっちゅうまる/ユニオン号)に帆船の庚申丸をつないで出航。小倉上陸を進める長州軍を援助するため、艦砲射撃を展開しました。
このときのことを龍馬は家族宛の手紙に「長州の軍艦を引いて戦争した」と詳しい戦闘図とともに残しています。

坂本龍馬によって作成されたとされる長州征討の図。

「維新土佐勤王史」によればこの戦いの時に龍馬は陸にいて、船の指揮を菅野覚兵衛に任せて阿弥陀寺の屋根から戦況を眺めていたと記されています。
7月4日の海戦の前に龍馬は桂小五郎に「どうぞまたやじ馬はさせてくれないか」と手紙を送っており、この<またやじ馬>の表記で前回の6月17日の戦いの時もやじ馬をしていたという裏付けだという見方があります。
6月17日の戦いはかなり熾烈で、仲間の社中が命がけで戦っていました。そして7月にも<またやじ馬>させてくれというのは、無責任のような気もしますが、もし半年前の寺田屋襲撃事件の傷がまだ癒えておらず参加を見送っていたとすると、せめてその目で仲間の戦いを見たかったのかもしれません。

なぜ幕府軍は第二次長州征伐を起こした?

第1次長州征伐で長州内で反幕府の「正義派」を追いやり、幕府寄りの「俗論派」が長州を仕切ることになりました
そこで「正義派」の高杉晋作・伊藤博文らが元治元年12月15日(1865年)に内戦「功山寺挙兵/元治の内乱」を起こして勝利。
長州は反幕府の「正義派」が実権を握ることになりました。

反幕府派の討伐をきっかけに長州を攻めたい幕府軍
長州藩内の情勢が変わったことで、幕府は「第二次長州征伐」を計画。将軍の徳川家茂が大阪城に構えて本州側・九州側から長州を攻め入る計画を進めます。

最新武器を備えた長州軍

本州と九州から32藩・約15万人の大軍に挟み撃ちにされる長州藩。その兵力は3500人ほどだったと言われています。しかし、高杉晋作が組織した奇兵隊が中心となり、薩摩藩から入手した最新武器を装備。
さらには大村益次郎が指揮して近代的武器での軍事訓練をして防戦準備をしていました。

一方、長州征伐を決めた徳川幕府は、西日本32藩に長州征伐の参加を指示して、約十五万の兵を集めました。しかし列強国薩摩藩や広島藩の不参加や、長州征伐に乗り気でない藩も多く、戦意はあまりなくてとりあえず旧式武器を持って参加しました。

幕末維新人物大辞典抜粋

なぜ幕府軍は敗れたか?

「第二次長州征伐」は、1866年6月7日に開始。幕府軍の艦隊が周防大島へ攻撃をし、6月17日までに、芸州口、小瀬川口、石州口、小倉口などでも戦いが起こります。
幕府軍は数では勝っていますが、薩摩藩や広島藩が出兵を拒否するなど兵士の士気は上がっていません。
特に石州口を担当した幕府軍は、大村益次郎の天才的な指揮の前に大敗を喫し、浜田城や石見銀山を失うなど、苦戦続きになります。

さらに大坂城にいた将軍の徳川家茂が8月29日に病死。跡を継いだ徳川慶喜は、1度は自ら出陣することを宣言するものの、小倉城陥落の報せを受けて撤回。

徳川家茂

徳川慶喜は、朝廷に働きかけて休戦の勅命を出してもらいます。
9月2日、広島にて幕府側は勝海舟が代表者として長州藩と休戦協定を成立。朝廷が正式に長州征討を中止したのは、翌年(慶応3年)の1月22日のことでした。
こうして、「第二次長州征討」は結果的に失敗となり、幕府の求心力が堕ちていることが知れ渡ることになりました。