下関についた 白石正一郎

竜馬がゆく

下関には、藩主毛利公から名字帯刀を許された豪商で、白石正一郎というふしぎな人物がいる。
ふしぎな、というのは、商人のくせにこの時代、めずらしく尊皇攘夷の志士で、長州藩の過激派を始め、諸藩脱藩浪士をかくまったり、泊めたり、資金を与えたりして、影の力になっていた。
吉村は、この白石邸に逗留していたから、そこへゆけば消息が知れようと思ったのだ。

白石正一郎は、山陽道きっての回船業の大問屋である。長州の金蔵といわれるだけあって、この別荘だけでも諸侯の城館を見る思いがする。

(竜馬がゆく3 P17)

白石正一郎

下関の豪商 小倉屋

長門国は清末藩の廻船問屋「小倉屋」は、米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等……扱わないものはないと思われるほどの規模で商売をする豪商。
主人である白石正一郎は、儒学、そして鈴木重胤から国学を学び、商家でありながら尊皇攘夷思想に目覚めて、国を憂いていました。
幕末の頃には、下関を通る尊王攘夷派の志士はほとんどが小倉屋に立ち寄るといわれ、坂本龍馬はもちろん西郷隆盛や九州に追いやられた七卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉)も頼りにしたほどです。白石はもちろん長州の高杉晋作にも惚れ込みます。

文久三年六月

文久三年5月10日、長州藩は、尊王攘夷を掲げて下関を通るアメリカ商船を砲撃します(下関砲撃事件)。
アメリカは軍艦を投入し6月1日に報復。下関湾内の長州艦隊や湾岸の砲台が壊滅し、大敗をきしました。
異国船の報復にあい、下関が大きく荒れた6月5日。豪商白石正一郎の日記にも
「前田ノ台場大砲損ジ異人バッテーラ(ボート)ニテ上陸」
「人家焼亡等大騒動ニ相成」
と記していました。

翌日、白石邸に長州藩士・高杉晋作が訪れます。
白石の日記には
「今後及深更高杉晋作君 出関此方へ止宿」
(今夜遅く高杉晋作君が下関に来て我が家へ宿泊した)
この1行だけだが、藩に奇兵隊構想を伝えた高杉は白石にバックアップの願いをし、白石もその意に応える話し合いがおこなわれたのでしょう。

奇兵隊設立

文久3年(1863年)6月6日に高杉晋作が奇兵隊を設立した時には、白石が全面バックアップします。
長州藩存亡の危機に藩主・毛利敬親に奇兵隊設立を進言。4日後に60名を集めて創立して、すぐに300名の大所帯の私兵軍団となります。これには小倉屋・白石正一郎のバックアップなしでは到底運営できなかったことでしょう。
白石正一郎も、自ら弟の廉作と共に奇兵隊隊員として参加しました。
正一郎は、奇兵隊員の会計方として、また隊士たちの金銭面の世話をします。働き盛りの隊員たち数百名の生活費も私財を惜しみなく投入しました。
活動では四ヶ月後の生野の変という長州藩内戦で弟の廉作死去の報という悲しい思いもしました。

白石正一郎邸跡地は、奇兵隊結成の地の石碑があります。

夢半ばに

奇兵隊の援助がふくらみ、白石家の商い「小倉屋」の借金が高まり倒産寸前まで追い込まれます。高杉晋作はそれを気にして藩に借財の精算をかけあったほどです。それでも、奇兵隊への投資と、一兵士としての参加をやめることはありませんでした。
しかし、白石正一郎が希望を託した高杉が慶応3年(1867年)27才という若さで死去してしまいます。
金も尽き、将来を託したい高杉も亡くなり、白石は間もなくその活動に終わりを告げます。
明治維新後は東京からの誘いを断り、赤間神宮の2代宮司となり歌や学問をして余生としました。明治13年(1880年)、69歳で死去。

白石正一郎が宮司となっていた赤間神社

龍馬・空白の半年

この時期に馬関(下関)にいたことは確かのようですが、ここから半年は確かな足取りがわかっていません。
ひとり九州を遊歴したという説。
大坂あたりに滞在していた説。
「おーい龍馬」の中では、この時期に九州から上海にわたり、欧米諸国に植民地のようにされた中国をその目で確かめ、高杉晋作と友好をもちピストルをもらうストーリーになっています。
脱藩後突如に目覚めた、海外へ対しての考え、現状日本に置かれた立場の理解、大型船への憧れは、空白の半年にコミックのストーリーが挟まると納得できてしまいます。