伊藤博文と円朝-文七元結

江戸時代の常識・風習

(どうも、このひとにはかなわぬ)
肩をすくめたが、そのまま髪をゆだねた。
お田鶴さまはこういう再会の仕方がひどく気に入ったらしく、入念にすき、元結を結ぶべく髪を引っ詰めた。「痛っ」竜馬は悲鳴をあげた。お田鶴さまはかまわず元結を巻き、そのあたりに唇を近づけていって、糸切り歯で端を切った。

竜馬がゆく 8 P364

落語・文七元結 創作のいわれ

三遊亭円朝のタニマチ(スポンサー)である藤浦 周吉のとろこにある日、伊藤博文、井上馨、黒田清隆、西郷従道らが遊びに来ました。その時に居合わせた三遊亭円朝に「江戸っ子の見本が出てくる落語を作ってくれ」と頼みます。
さらに、藤浦 周吉が「善人ばかりで悪人を出さない、メリハリがあって面白い話にしてくれ」と難題な注文をつけました。
  三遊亭円朝の遺言  藤浦 敦 より

京橋大根河岸の三周、三河屋周吉。

元徳川家御直参旗本だった藤浦周吉は、維新の後に野菜を扱う青物問屋の主になり、三河屋の周吉・略して三周、のちに“京橋大根河岸の三周”は知らない者はいないほどの成功者となりました。その頃売り出し中の三遊亭円朝のパトロンとなって面倒を多く見たことから、円朝死後にその名跡である「円朝」を三遊派宗家の預かり、藤浦家は円朝名跡継承者となりました。

伊藤博文らが藤浦家を訪ねてきたとき、これら明治政府の要人達はみんな幕末維新の勝ち組である薩摩藩・長州藩の生まれ。
東京を首都とした政府をつくるためには、ここ東京に住む江戸っ子というものを理解したい。
そこで、江戸一番の落語家に「江戸っ子とはどういった考えの人間か」という教本を作ってもらいたかったのかもしれません。

作者の三遊亭円朝は、薩摩・長州の田舎侍が我が物顔で江戸を闊歩していることが気に食わず「江戸っ子の心意気を誇張して魅せるために作った」と言う説もあり、江戸っ子気質が行き過ぎて描写されるのはこのためだという解釈もあります。

1889年(明治22年)の『やまと新聞』に速記が掲載されました。

最新メディアの落語・演芸

この当時の落語や講談・歌舞伎などの演芸は今で言うところの「メディア」。最先端の流行りものを30分でわかりやすくまとめるTVのワイドショーのような役割もあり、庶民も世間で起こっている時事や流行を知ることができました。

文七元結(ぶんしちもっとい)

博打にはまって借金に追われる「左官の長兵衛」の娘・お久(おひさ)が、吉原・佐野槌の女将に父親の借金返済のために身を売る相談をしました。この親子をよく知る女将は、すぐに長兵衛を呼び、借金の五十両を渡し、来年大晦日までの立て替えで、返せないときには娘を働かせると約束をさせます。

長兵衛はその帰り道の吾妻橋で、お店(おたな)の集金五十両を紛失して身投げをしかける奉公人・文七と出会います。「五十両でおまえが死ぬならくれてやる。娘は店で働くことになっても死ぬことはない」と見ず知らずの男に金を渡してしまいます。
文七がお店に戻り、金を差し出すと「集金先で置き忘れた五十両が先に届けられている。その金はどうした」と主人の近江屋卯兵衛に問いただされて、驚いた文七が吾妻橋の一件を白状する。
「見ず知らずの人間に大金を渡した心意気」を知った卯兵衛は、手を尽くしてこの恩を返す算段に。

翌朝、左官の長兵衛の家を訪ねる男。『昨日の夜から夫婦げんかのし通しだよ』と家を教えられます。中から「どうせ五十両はまた博打に使ったんだろ」などと言い争う声が。
『ごめんください』と顔をのぞかせたのは、身投げをしかけていた文七と近江屋卯兵衛。
「あっ!この男だよ」と驚く長兵衛に、卯兵衛は厚く御礼を述べて頂いた五十両を差し出す。
いったん人にやったものは受け取れないと渋る長兵衛に、なんとしてもとあたまを下げ、受け取ってもらい、さらに御礼の品として酒を差し出すと『酒は好物』と喜んで受け取る長兵衛。

酒のともとしてお気に入ればと運び込まれた駕籠から出てきたのは、美しく着飾った娘のお久。
卯兵衛は佐野槌からお久の身請けまでしてきました。再開した親子は手を取り喜びます。

のちに文七とお久は結ばれ、麹町で“元結”の店を開きました。という一席

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【ありえないほどお人好しの江戸っ子たち】

左官の長兵衛:身売りした娘の金を見ず知らずの金を落とした奉公人にくれてやる
娘・お久:博奕の借金で苦しむ家族を助けるために女郎屋に身売りする
佐野槌の女将:知り合いの娘なので大晦日までの猶予で五十両を貸し与える(普通はすぐに店に出す)
集金先のお店:奉公人がうっかり忘れた五十両を正直に卯兵衛の店に届ける
近江屋卯兵衛:吾妻橋の一件に感動して、■佐野槌からお久を見受けする(五十両)■長兵衛に金を返す(五十両/長兵衛は受け取らず)

元結とは

元結の源流は、信州の飯田水引にあります。

江戸時代の髪をまとめる方法は、男性のチョンマゲや女性の日本髪も、まずは元の部分を束ねて紐で結わえて固定して形作っていました。この紐として使うのが、糊で固く捻ったこよりで製した紙紐の元結です。当初は普通の紙製のために、非常に弱く扱いにくいものでした。

元禄年間(1700年頃)美濃から招かれた紙漉き職人・桜井文七が、修行を積みながら元結改良に日夜苦心を重ね、光沢のある丈夫な元結造りに成功。
この品を江戸で売り出すと、たちまち髪結床から注文が殺到、これを契機に江戸に卸問屋を開業します。すぐに「文七元結」の名で国中の評判になりました。