津田梅子

6歳で留学

元治元年12月3日(1864年12月31日)元佐倉藩の藩士で農学者津田仙(つだせん)の子として江戸に生まれました。初名は津田むめ。
6歳(数え年8歳)のときに、北海道開拓使が募集した最初の女子留学生の一人として岩倉使節団(いわくらしせつだん)に加わり、明治4年11月12日アメリカへ出発しました。
このときの留学生で5人の女子がいましたが、梅子は最年少で、英語の単語を2、3語ほど知っている程度でした。
アメリカで小学校を終え、女学校にも進み、フランス語やラテン語、数学、物理学、天文学などを学びぶなど、11年間アメリカで暮らしました。
8歳のときには、キリスト教の洗礼も受けました。

左から、永井繁子 (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。明治4年。姓名はいずれも当時のもの、数字はかぞえ歳 。

1882年に帰国した当時の日本には学歴を持った女性の活躍する場は与えられませんでした。当の梅子自身も、日本の習慣や日本語さえも忘れていました。

留学した仲間も体調を崩したりして、同時期まで一緒にいたのは山川捨松、永井繁、津田梅子の3人となりました。

19歳の時に帰国した梅子は、日本語を忘れていて、家族に挨拶をするにも苦労したといいます。人力車に乗ろうとした際には行き先を日本語で伝えられず、通りかかった外国人に英語で通訳してもらったそうです。

幕末維新人物大辞典より

留学した仲間は就職もままならないため、結婚という道を選びます。しかし見合い結婚を勧められた梅子は「愛のない結婚はできない」と断っていました。

山川捨松は、17歳年上の陸軍卿・大山巌の後妻になります。
開国直後で諸外国との交流が進む中、会食などの折りに夫人同伴の必要が生まれました。即戦力となる芸者を正妻として同伴する人もいましたが、山川捨松は留学の知識と英・仏・ドイツ語での会話や本場仕込みの立居振る舞いで応対できるので、「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれました。
ここでの交流を元に慈善事業などにかかわっていきました。

伊藤博文と梅子

岩倉使節団で一緒に渡米した伊藤博文と再会した折に、下田歌子を紹介されます。彼女は、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設しており、梅子は「華族女学校」で英語教師となりました。しかし、桃夭女塾は上流階級の子女に西洋式マナーを教える学校であり、梅が望む教育の場とは違っていました。
桃夭女塾は後に実践女子大学となります。

伊藤博文の子供の英語教師として伊藤家で一緒に暮らす時期がありましたが、伊藤が実は女好きで、妾(めかけ)をかかえていることや、その子供を引き取って正妻に育てさせている事を知り、教育を受けたアメリカの男女の考え方との違いの大きさに驚き失望したと言われています。

YTB どこまで言って委員会 2022.2月

アメリカへ2度目の留学

明治22年(1889年)7月にふたたびアメリカ留学して、生物学と教育学の研究に打ち込みます。そして「日本の女子教育に力を尽くそう」と帰国します。

帰国前の1年あまりで寄付金集めに奔走してその資金を元に「日本婦人米国奨学金制度」をつくりました。約30年で25人の女性をアメリカ留学できました。
彼女らは帰国後、日本の女性教育に大きく貢献することになります。

津田梅子

明治33年(1900年)学問を志す女性なら誰でも学ぶことができる「女子英学塾」を設立。自由で高いレベルの授業を行いました。
これが、のちに津田塾大学となります。

うわさ確認中
日本では和装で生活していたらしい