大山捨松

幕末の女性

大山捨松

会津戦争で凄惨な現場を目の当たりにする

会津藩重臣・山川尚江重固(ながえしげかた)の2男5女の末娘として生まれ、幼名は咲子と名付けられました。
幕末の騒乱が高まった慶応4年/明治元年(1868年)。薩長連合の明治新政府軍が幕府軍を負かし、その勢いで旧幕府軍の会津藩は攻め込まれて会津戦争が起こりました。会津藩の武家たちは若松城に終結して1ヶ月における籠城戦に追い込まれました。
会津藩・幕臣の山川家も数え8歳の咲子ら一家全員で籠城に参加しました。

城内にいる女子も戦闘員となり、子どもの咲子も弾薬の運搬を手伝っていました。敵が打ち込んできた不発弾も回収して自陣の弾薬としていたところ、打ち込まれた不発弾が暴発して目の前で兄嫁の爆死。
壮絶な人の生死は、8歳の咲子の脳裏に焼き付きました。

捨松は、女であっても戦の一員となり戦うこと、人があっけなく死んでしまうことを経験をする

母親から「捨松」と改名させられ、アメリカへ

明治になり、明治政府が岩倉使節団(いわくらしせつだん)を組織した時、次世代の人材育成の為に子どもを長期アメリカ留学させる計画が持ち上がりました。しかし「ペリーの黒船の国・アメリカに10年以上送り出す」ために、応募する者はいません。

敗戦の藩士の子として

第2回の募集時に「旧幕府軍・佐幕派」で虐げられていた藩で「教育熱心で開明的な家庭」の子どもたちや、北海道開拓使に携わる幹部の子から応募が集まりなんとか体裁を保ちました。
捨松の母親は教育熱心だったと残されていますが、当時まだ12歳だった末娘を政府に差し出し、異国に旅立たせるのは、親としては耐え難い思いがありました。武士という身分が無くなったいま、子ども達を生かすために勉学の機会は必要だったのです。

12歳の子を10年間も異国に旅立たせるのは、未来も婚期もすべて失わせるようなこと。この子はもう捨てたつもりで帰りを待つという切ない思いで「捨松」と改名させました。

米国行きが決まった少女5人は、皇后陛下から「女子の模範となるよう心がけ日夜勉強に励むように」と御沙汰書をいただきます。

咲子は山川捨松となり、明治4年11月12日岩倉使節団としてアメリカへ出発しました。
このときの女子留学生は最年少参加者の5歳の津田梅子ら5人でしたが、アメリカについて一年ほどで二人は体調を壊して帰国することになります。

11年間の留学期間最後まで米国にいた捨松、永井繁(繁子)、津田梅子の3人はその後も生涯にわたって大切な友となりました。

beautiful american life

生涯の親友アリスとの生活

「日本人同士で固まっていては現地の生活が身につかない」と、子ども達は別々に暮らすことになります。
捨松はコネチカット州の牧師レオナルド・ベーコン家に住むこととなり、優しく受け入れられました。
なかでも2歳年上の末娘・アリスとは、生涯を通じての親友となります。
毎日の勉強と、ピアノのレッスン、近所の友達とのピクニックやゲーム。コネチカットでの生活は人生の喜びを教えてくれる暮らしでした。

女性の社会活動に出会う

高校生になった捨松は、女性の社会活動・アワーソサエティ(私たちの会)という新たな経験をします。町に住む見ず知らずの貧困家庭の女性や子供たちのための支援をするという体験は、今まで知らなかった世界。女性だけの団体に捨松も参加し、おむつを縫ったり子供服を作ったり寄付金集めをしたり、全く知らない人へのボランティア精神を学びました。
同じ時期に、一緒に住むベーコン家のアリスは当時アメリカで問題となっていた人種差別問題に立ち向かう姿にも驚きを覚えました。

捨松は、女性でも助け合うという社会貢献ができる方法を学ぶ

明治11年9月(1878)ベーコン家を離れニューヨークのて名門女子大学バッサー・カレッジに進学ます。物理学などの自然科学を多く学び学内でもトップクラスだった捨松は、この時同時に短期間ですが、看護学校で看護教育も学びます。
10年間の留学期間を更にもう1年留学を延長して大学を卒業。学士号を取得しました。
いよいよ明治14年10月に津田梅子らと共に帰国することとなります。

ストレンジャー
捨松は、学生時代にストレンジャー(よそ者)というペンネームを使っていました。
自分は全く関係のない場所から来て多くを学び吸収しているよそ者の日本人である事を、アイデンティティとして隠そうとはしない、強い意志を表していたと考えられます。

帰国前に親友のアリスに『来年には日本に来てね。あなたが英語と文学を。私が生理学と体育を教える事ができます。』(1882.8.2。)と手紙を渡しました。

捨松は、日本初の大卒女性。学士号取得女性となる

帰国

帰国した山川捨松、永井繁子、津田梅子らは、いきなり壁にぶち当たります。11年間のアメリカ生活のおかげで簡単な会話程度の日本語しか話せなくなっていました。
日本語が話せない、しかも学歴を持った女性に対して政府はなかなか適切な仕事を用意できません。
文部省から「東京女子師範学校で動物学と生理学を教えないか」という打診を受け、年俸600円という好待遇を提示されます。(明治16年〈1883年〉2月3日付の捨松からアリスあての書簡)
喜んだ捨松ですが「日本語の教科書を使いこなしながら黒板を使って日本語で説明する」授業には、準備や対応がすぐにはできずお断りする事となります。

捨松や梅子たちは自分たちのキャリアを生かすためには、自分たちで「女子に英語を教える私塾を独力で設立する」事を目標にしました。

女性は結婚しなければどうにもならない

アメリカのアリス宛の手紙で「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。想像できる? 母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの」という趣旨の愚痴をこぼしていた捨松。

20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって

アメリカ留学仲間の永井繁子が瓜生外吉と結婚することになり、披露宴の余興で山川捨松は「ヴェニスの商人」を演じます。
パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われた男性がいました。陸軍中将の大山巌です。
(益田邸で梅子らとともに捨松がテニスをしている姿をみて一目惚れ説もあり)

スイス留学の経験がある大山巌(陸軍中将・陸軍卿・参議)は妻を亡くし3人目の子どもをかかえていました。
役職柄、フランスやドイツの要職と会う大山巌は、アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松はまさに自分の求める最高の女性でした。大山の求婚が実って明治16年(1883年)11月8日、大山巌と山川捨松との婚儀がおごそかに行われました。

その1ヵ月後、1883年12月に完成したばかりの鹿鳴館で大山夫妻の盛大な結婚披露宴が催されます。そこには、諸外国の外交官はもとより、彼らとパイプを構築したい明治政府の高官たちが宴に集まってきました。

捨松は、入退場する来客一人ひとりと握手をしたり、夫人をエスコートする西洋式マナーを知らない日本人の夫に、置き去りにされた夫人たちの相手をする姿を見て、外国人記者から「完璧なホステスぶり」と称賛されました。

社交界デビュー

鳴館では、毎晩のように内外の紳士淑女たちを集めて晩さん会や舞踏会が行われました。江戸時代の上流階級の女性は家に居ることが当然で、社交の場に出る習慣がありません。政府高官夫人でさえも社交場でのや接待などできない女性が大半でした。
そのような中で、美しく長身の捨松は、ワインカラーのビロードの夜会服がよく似合い、流暢な英語で外国人と言葉を交わし、軽やかにダンスのステップを踏み「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになりました。

社交界デビューからの活動
西洋式の社交界のもてなしで、日本が文明国であることをアピール
政府高官の婦人として不平等条約の改正に少しでも役立つのであればという思いから
日本初のチャリティーバザーを鹿鳴館で開催
1884年7月、政府高官夫人や令嬢たちを指揮して3日開催
バザー収益金で日本初の看護婦教育所を設立
収益金で有志共立東京病院(現慈恵医科大学病院)に日本初の看護婦教育所を設立
女子教育の発展を目指して津田梅子を支援
1900年9月、津田梅子が女子英学塾を創立するにあたり顧問となり、後に社団法人を組織して理事の一人となります。同窓会会長も引き受け、生涯全面的に協力
日本赤十字社篤志看護婦会を主導
日露戦争(1904年2月~1905年9月)時、捨松は上流階級の婦人を集めて、負傷兵の看護や包帯作り、貧しい出征家族への支援などを行う

捨松は、少女期に極貧の生活を経験しながらも、優れた才知と行動力を持っていました。本来は学校を創ることを考えていましたが、状況が許さないため、180度転換して結婚を選択しました。彼女は政府高官夫人として上流階級の夫人や令嬢たちを社会活動に参加させ、意識を変える取り組みを行いました。直接女子教育に携わることはできませんでしたが、アメリカでの経験や学びを生かし、国費留学生としての責任を果たすために、できる限りの社会貢献を行いました。こうして、ピンチをチャンスに変え、捨松は新たな役割で社会に貢献しました。