桜田門外の変 井伊直弼

徳川幕府

門前で馬蹄の音が止まったかと思うと、庭先へ旅装の武士が駆け込んできた」
「竜馬、一大事じゃ」
武士は武市半平太である。
「珍しい、おまんがそんな昂ぶっちょるのは」
「大老井伊直弼が、江戸桜田門外で身と、薩摩の夕刻の烈士のために殺されたぞ」

竜馬がゆく2 P220
桜田門

桜田門外の変

大老井伊直弼は「上巳の節句」で屋敷から江戸城に登城中、桜田門外で水戸藩脱藩の関鉄之介ら17名に薩摩藩脱藩の有村次左衛門を加えた18名から襲撃を受けた。殺害され、首級を奪われたが、のちに発見され引き取られる。
幕府が進める安政の大獄や諸外国との通商条約締結は諸藩の尊皇攘夷派を激昂させており、水戸藩の尊皇攘夷派が、井伊直弼暗殺の実行に移した。

井伊直弼

埋木舎 うもれぎのや

文化12年(1815年)生まれの直弼は、彦根藩主・井伊直中(なおなか)の一四男として父44歳の時に生まれます。次期藩主は兄に決まっており、他藩の養子にも選ばれないまま、役職も嫁も持てないまま城外に家をもらい部屋住みとして暮らしていました。自分の屋敷を埋木舎(うもれぎ(花の咲くことのない木)のいえ)と自虐的に名付けていました。

趣味人チャカポン

国学などの学問をはじめ、歌道(和歌)、茶道(石州流)、鼓などの風流な趣味を極めていました。
武士として禅、兵学、槍術、居合術も習っていました。殿様芸と言えないほど極めていき、特に茶道では一流を樹てるほどの名人だったといわれています。
このころの井伊直弼を城下のものは「ちゃかぽん」と呼んでいました。
茶・歌・鼓(つづみのポンという音)の趣味にうつつを抜かしている男だと思われていました。

藩主になれた理由

父の直中から、三男の直亮が14代藩主になり、次には11男の直元が継ぐ予定になっていました。側室の子供である直弼は他藩の養子の話もありましたが兄に奪われて売れ残っていた状態です。
弘化3年(1846年)直弼31歳の時に、後継予定の11男直元が急死したために、直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定して江戸に召喚されます。
藩主・直亮の在国時は、代わって江戸城溜間に出仕したり、他大名家と交流を持つなどの活動を行うことで、後年の将軍継嗣問題における直弼の行動指針となった家格や血筋を重視する姿勢は、この頃に培われたとされます。
直弼を後継候補とした藩主・直亮ですが、異母弟の直弼が大嫌いだったらしく必要な予算を渋るなど執拗にイジメていました。5年後、藩主・直亮が急死してしまい、ついに部屋住みの直弼が彦根藩主となりました。
(逆説の日本史 ほかより)

井伊直弼は開国論者だったというのはウソ

直弼は「国学」を重んじる保守的な考えの持ち主だった。国学とは、「古事記」や日本書紀を重んじ、日本古来の精神に立ち返る事を説いた学問です。
清国を侵略していくイギリスを警戒した幕府は、対米交渉を積極的に進めて大半の大名の賛同を得ていて、1858年を目処にすすめていた。直弼が大老に就任したのは、調印の予定日を過ぎた安政五年1858年4月で、全くこの協議に加わらず、決められた路線を踏襲したに過ぎません。
(幕府通説のウソ/彩図社2019 より)