英国公使館焼き討ち

諸外国

江戸桜田の長州藩邸にいる同藩の過激有志の旗がしら高杉晋作が、
「薩摩藩が、生麦で夷人を斬って天下の攘夷のさきがけをした。長州藩たるものがそれに負けていてはならぬ」
と、同志に説いた。高杉のいうところでは薩摩藩に勝つにはもっと大きなことをやらなければだめだ。

さて、その12日の夜、一同は神奈川の下田屋に集合した。あすは暁に討って出、金沢におもむこうというのだ。

(竜馬がゆく3 P269)

英国公使館焼き討ち事件

文久二年12月12日(西暦は1863年)。攘夷運動の急先鋒・長州藩として、高杉晋作が同志・九坂玄瑞、井上馨らと共謀し、品川御殿山(品川区)に建設中だったイギリス公使館を襲撃し、焼き討ちしました。

英国公使ラザフォード・オールコックは他の公使とともに幕府に公使館建物の建設を依頼し、建設費の10分の1の年賃貸料で借りることで合意。オールコックが簡単なスケッチ図を提供し、それをもとに幕府作事方が文久2年春に建設を開始。12月には建物はほぼ完成し、翌年にイギリス公使館として用いられることになっていた。
焼討ちにより全焼し、オールコックは政情不安な江戸ではなく公使館を横浜に置くことに変更。
焼失しなければ、江戸地域最初の洋館建築となっていた。

建設地の品川御殿山は、江戸の桜の名所として名を馳せる風光明媚な土地で、江戸湾から東海道を見下ろせる立地。江戸庶民のお気に入りの名所だった場所です。

葛飾北斎の御殿山の絵

アーネストサトウが見たイギリス公使館

建設中のイギリス公使館は、一棟の大きな二階建ての洋館で、海に面した高台に立ち、遠方からはそれが二棟のように見えた。大変見事な材木が工事に使用され、部屋はいずれも宮殿に見るような広さをもっていた。

一外交官の見た明治維新 アーネストサトウ

漆塗りの床や、風雅な図案を施した壁紙など、立派な大使館を目指した造りだったようで、書記官の住む平屋住居や、40頭の馬を飼う厩、牛舎、ヨーロッパ人の衛兵用の屯所などが準備されました。
また、フランスやオランダの公使館も同時に工事が進められていました。
外交官の目から見ても立派な造りで

一方で、日本の城のように周囲に深い堀と内側のヘリに高い木柵を巡らせて、攘夷派が襲撃しても堪えられる防備を準備していました。

一般市民も以前自分たちの遊興所であったこの地が「外夷」の居住地に変わるのを憤慨していた。この建物はいち早く完成させ、早急に引き移ってしまうことが、政策上必要と考えられた。

一外交官の見た明治維新 アーネストサトウ

と、幕府主導で建設しているものの、日本国民・庶民達からは面白くないと思われている事を十分知っており、反対派からの襲撃も想定していました。

伊藤博文から見た事件

私(伊藤博文)は、外国公使館焼き討ちに際し、これを焼き払ったら、さぞかし外国人は憤激するだろう。幕府は面目を失い、外交は必ず困難を極めると予想していた。攘夷派の志士は奮起するに違いない。どんなに頑冥(がんめい/かたくなでものの道理がわからないこと)な幕府でも、ついに攘夷の断行をするという覚悟を決めるだろうということで、総勢十二名で御殿山の公使館邸を焼き払った。
今でこそいたずらなどと笑うが、その時は命がけの大仕事であった。

伊藤公直和 千倉書房 より一部意訳

伊藤博文が後生に語った焼き討ち事件の襲撃への思いは、非常に熱いものがあります。
その当日の、決起前の様子はどうだったのでしょうか。

同じ「伊藤公直和 千倉書房」にその時の様子が詳しく書かれているのですが、

井上馨が、放火の元として火薬を仕込んだ炭団(たどん)を用意し、それをお里の部屋に持ち込んだ。そこから景気づけに酒を飲み始め、高杉、久坂、井上らが時間を潰すために飲んだり歌ったりが始まった。

伊藤公直和 千倉書房

ここで「侵入するには道具が必要だな」と考えた伊藤博文は、こっそり出かけて品川宿の夜見世(花街)をひやかしながらのこぎりを一丁買ってきます。
夜も更けて、いよいよ皆で御殿山に向かうことに。公使館に近づくと

大きな丸太の柵が建て連ねてあり、下から潜ることも上から飛び越すこともなお難し。誰一人この関門を破ることに気づかなかったのは残念だと久坂が言う。
そこで私は「拙者かくあらんと考えてこの利器を用意してきた」と腰から鋭利なのこぎりを抜き出した

伊藤公直和 千倉書房 より一部意訳

ノコギリを駆使して、なんとか公使館の敷地に忍び込んだものの、すぐに番人に見つかります。
「何者だ!」と問われたところ

われわれは天下の志士だ。御国のため妖気を払わんがために来た
焼き討ちにする

と宣言!
すると、「それはならぬ、許さぬ」と番人が応えます。
やむをえず高杉晋作が抜刀して蹴散らして先に進み、いよいよ屋敷内に侵入。
すると、井上多聞が

井上多聞
井上多聞

しまった!火薬を仕込んだ炭団(たどん)を
お里の部屋に隠したきり、持ってくるのを忘れた!

と公邸を爆破する肝心の火付け道具を忘れていました。
仕方なく、戸障子を外してまわり、四方に山積みにして火を付け燃え上がるのを確認してから退散。
大使館の外まで出ると盛んに燃え上がり、消火の者達が集まっていました。
そこで皆三々五々に分かれて帰りました。

尊皇攘夷を掲げて、勇ましく襲撃したイメージからは、あまりにも計画が甘すぎのような気がするのですが・・。

悪の歴史日本編・下より抜粋

高杉晋作の思惑

隠れ開国派?高杉晋作

この時期の長州藩の主流になってきた考えは「破約攘夷」という思想で、外国と結んだ協約を全て破棄して、外国人を追い出し、再び鎖国状態に戻せといきまいていました。
江戸に詰めている長州藩士もイギリス公使(代理公使ニール)を闇討ちする計画など立てますが、なかなか実行に移せません。

一方、高杉晋作はと言うと、
この春に清国に行き、アヘン戦争・アロー号事件なのでイギリスに征服された姿をみて恐ろしさを実感。高杉晋作・上海へ
日本に来たイギリス人の一人や二人殺したところで、逆に日本に攻め入る口実を与えてしまうことにもなります。そんなことより、押し寄せてくる諸外国とどう対等に渡り合うかと言う考えに変わっていました。
しかしそれを仲間に話しても、思想が変わったのかと突き上げられてしまいます。

そこで高杉は、外国人に直接手を出さずに、藩士のガス抜きにもなる妙案を考えました。

「英国公使館を焼き討ちにしてしまおう!」と
建設途中英国公使館を全焼させてしまいました!

高杉晋作の狙い?

長州藩は、英国公使館を燃やしてしまったことで、
「夷狄のえらそうな建物をぶっ壊したぞ」という達成感を得られました。

イギリス人は、幕府が一生懸命立ててくれているけれども、未だ誰も入居していないので、何も被害を受けていません。入居が延びたなーぐらいの感想でしょうか。

高杉晋作のこの行動は、最小限の被害で長州藩の面目を立てる優れた計画となりました。

後に長州ファイブと呼ばれる面々

この時のメンバーは高杉隊長率いる御楯組(みたてぐみ)と呼びました。
なかでも、伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)、山尾康三、遠藤勤助、野村弥吉(井上勝)
と、英国邸を焼き討ちしたこの5人が、なぜか約半年後の文久三年五月十二日に驚く行動に出ました!
それは、英国留学にでること。

高杉晋作の手はずで、英国密航に成功。彼の地では貪欲に最先端の文化を吸収し、英国人の間でも「長州ファイブ」と名指しされるほどだったそうです。