勝邸に… 勝海舟と子供

幕末の女性

「お父様」
といったのは、ことし十四歳になる次女の孝子である。のち、旗本の疋田氏にお嫁入りした娘で、なかなかの利発者であった。
「裏の木戸のそばに、毎夜、浪人者がすわっているのをご存じでございますか」
「どんな男だ」
「大きい人でございます。刀を抱いて居眠りをしていらっしゃいます。」
「そいつは、きっと竜馬だよ」

竜馬がゆく3 P229

勝邸の人々

勝海舟のお妾さん

勝海舟には、正妻の民子の他に、梶球磨(お久)・増田糸・小西かね・清水とよ・森田米子と、五人ものお妾さんがいました。そして、それぞれのお妾さんも子供をもうけています。

正妻・勝 民子

正妻の民子は、深川で芸者をしていて勝より2歳年上。勝が23歳の時に結婚します。貧しい時代を支え、二男二女を授かりました。

梶玖磨(お久)

やがて幕府に仕えて出世した勝海舟は、長崎伝習所時代(34歳)に、当時14歳だった梶玖磨さんを妾にします。息子(梶梅太郎)を授かるも玖磨さんは25歳で亡くなりました。

増田糸

咸臨丸で渡米する前に出会ったのが増田糸さん。逸子(現:専修大学の創立者・目賀田種太郎夫人)、八重の2人の子を授かります。
驚くことに、勝は彼女に別宅を用意するのではなく、なんと正妻のお民さんがいる本宅に、彼女を使用人として迎え入れました。

赤坂氷川邸で働く使用人・小西かね(兼)

赤坂氷川邸で働く使用人・小西かね(兼)との間にも、義徴(岡田義徴(七郎))が生まれます。
アメリカ視察や幕末の動乱時、西に東に忙しく飛び回る勝を、お民さんは妾さんと多くの子供と一緒に暮らしていました。

旧幕臣の娘・とよ

勝は近所の旧幕臣の娘・とよさんにも手を出しました!この時、勝は62歳!!
五女となる妙子を授ります。とよさんは後に暇を与えて香川家に嫁ぎ「香川とよ」となりました。

赤坂氷川邸で働く使用人・森田米子

この後にも 赤坂氷川邸で働く使用人・森田米子さん も妾としています。

正妻の民子は、温厚な性格だったといわれています。妾とその子らとともに同居して異腹の9人の子供を分け隔てなく可愛がり、屋敷の人々から「おたみさま」と呼ばれて慕われました。

最後に民子は

勝海舟は、「俺と関係した女が一緒に家で暮らしても波風が立たないのは女房が偉いから」などと吹聴してまわり、それが正妻・民子の機嫌取りとなって「波風が立たない」と甘く見ていたのでしょうが、民子の本心まで、やはりわかってはいませんでした

勝が75年の生涯を閉じるのは、明治32(1899)年。
お民はその6年後に亡くなりますが、死に際にある遺言を残します。

おかみさん
おかみさん

勝海舟と同じお墓に入るのはイヤ!小鹿の隣に埋葬してくれ

小鹿とは、お民が産んだ男児で、勝にとっても、たった一人の跡取り息子でした。
小鹿はアメリカのラトガース大学の留学から、さらにアナポリス(海軍兵学校)を卒業して帰国。日本海軍に入ります。
民子にとっては、自慢の息子でした。
ところが、明治25(1892)年に39歳の若さで両親よりも先に亡くなってしまいました。

増田糸の娘・逸子 (目賀田逸子)と坂本龍馬

その頃、龍馬の訪問を誰よりも待っていた少女がいた。勝海舟の娘・逸子である。後年、マスコミなどに勝邸におとづれた時の龍馬の様子を語っていた。
「坂本さんは、顔に薄いあばたのある面長な人でした。髪をいつも総髪にしていました。首を左右に細かく動かすのが坂本さんのクセでした。
「坂本さーん」座っている後ろへ廻って首っ玉にしがみつきますと、坂本さんはものも言わず立ち上がって、右腕に私の帯を支えて、ぐっと天井高く差し上げ、再び畳に打ちつけるように頭の方からくるっと私をどんでん返しにするのでした。お転婆な私は、それが嬉しくて、坂本さんが来るといつもそうして遊ばさせていただき、坂本さんもまた、大変私を可愛がってくれました。

(聖徳を仰ぎて より/歴史人P66)

落語と妾

江戸・明治時代には許されていた「お妾さん」

桂米朝さんのまくらに
『江戸では「お妾さん」といいますが、上方では「御手掛けさん」ともうしました。ところによって、目をかけるか手をかけるか。上方の方が直接的な表現ですな・・。』とありました。
今の時代では、有名人や公人たちの浮気がバレると大スキャンダルで人格抹殺されていますが、江戸時代から昭和初期まではおおらかなものだったのでしょう。
夜中じゅう自宅と妾宅を往復させられる「権助提灯」
自分と妾さんとのどちらを旦那が好いているか占う「悋気の独楽」
トビのお頭の家と、剣術道場の間に挟まれ、乱暴者たちで困ると旦那に愚痴をいうことが発端の「三軒長屋」など、妾さんの登場する噺は数え上げるときりがありません。
落語の世界にも残っているように、当時は当たり前に妾という地位が確立されていました。