東洋、亥の刻(夜十時)、お城を退出。
竜馬がゆく2 p423
「いや、酔った」
と、御殿の玄関で若党がさしだす傘をうけとり、ぱらりとひらいた。
石段をおりるとき、東洋の身を守るようにして、数人の若い武士が前後した。きょうの進講の陪席者たちであった。後藤象二郎、市原八郎左衛門、福岡藤次(孝弟)、由比猪内、大崎巻蔵らで、いずれも東洋の蟄居(ちっきょ)当時の門弟であり、東洋が政権の座に復してから抜擢した新官僚たちである。
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「では、御執政、お気をつけて」と、若い後藤象二郎はいった。
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東洋は、ついにひとりになった。
前後に、若党と草履取り。東洋は左手に傘の柄をにぎり、ぬかるみを避けながら、ゆっくりと歩いて行く。
その十数歩さき。
三人の刺客が待ち伏せている。
壮漢三人。
吉田東洋
山内容堂の元、富国強兵論を主張した藩政改革を行う。
鶴田塾を開き、後藤象二郎、乾退助、岩崎弥太郎ら「新おこぜ組」を教える
酒席では不運(山内家親戚と揉め事事件や自身の暗殺など)
天保12年(1841年)25歳の時に父・正清が死去したため、家督を相続。
翌年から出仕して13代藩主・山内豊熈が進めていた藩政改革にも携わります。
その後、第15代藩主・山内容堂に抜擢され、仕置役に起用される。富国強兵論などを唱え藩政改革を行います。
容堂の江戸参勤に同行した先で、山内家姻戚である旗本・松下嘉兵衛に対して、酒宴の席で無礼を起こし免職となります。
免職後、長浜で「鶴田塾」を開く。この鶴田塾からは後藤象二郎、福岡孝弟、間崎滄浪、乾退助、岩崎弥太郎など多くの人材を輩出します。
のちに「新おこぜ組」と呼ばれる改革派の原動力となります。
安政の大獄が起こり、情勢が変わると赦免され藩政に復帰。
門閥政治打破、流通機構の統制強化、洋式兵器の採用などの改革を次々と遂行していきました。
しかし、文久2年4月8日(1862年5月6日)藩主・豊範への講義からの帰途で土佐勤王党の志士・那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助によって暗殺されました。
享年48歳。
東洋暗殺後、その首を「ふんどし」に包み、それを抱えて「雁切橋」のたもと、鏡川の河原にさらしました。
山内容堂が掲げるの公武合体派の吉田東洋と土佐勤王党が掲げる尊王攘夷派とは激しく対立していました。
東洋の意志は義甥で愛弟子の後藤象二郎らに受け継がれて、大政奉還へとつながっていきます。
新おこぜ組
「おこぜ」とは貝の一種で、この貝を懐中に海や山に出れば、その地の幸に恵まれるという俗信から転じて「おこぜ組に参加すれば思いのままの官途につける」とみる世人らから名付けられた蔑称。
13代藩主・山内豊熈の時に馬淵嘉平に集まる取り巻きが「おこぜ組」。
15代藩主・山内容堂のもと、吉田東洋の一派を「新おこぜ組」と呼びます。