嘉永の地震

嘉永七年十一月三日

昼にお冴から一丁ばかり南の八幡社の離れで、亥の刻に忍び逢いましょうと言われた。
竜馬は離れに入った途端、徳利を見つけお冴えを前にして飲みだした。
お冴えは呆れて「ここへお酒を飲みに来たのですか」
「国もとに、闇汁と申す若い衆の遊びがる。座の真ん中に大鍋を置いて、いろんなものを放り込むんです。南瓜もナスも、古わらじや猫のようなものまではいっちょる。」
「なぜ皆さんそんなことなさる」
「胆を練るためです。武士としていかなることに出くわしても驚かぬ鉄賜を練る」
「ちょっと伺いますけど、私は古わらじではありませんよ」
「覚悟はしている」

「冴えが教えて差し上げます」
「教えろ」

その時である。

嘉永七年十一月四日の地震が、江戸・相模・伊豆を襲ったのは。
「いかん。お冴え中止じゃ」
とっさに大刀を拾い上げた。立っていられないのだ。
どすん、と床が沈むような感じであったが、すぐ横振れになった。壁土がばらばらと落ちはじめお冴えの手を掴み飛び出すと、離れの屋敷が大音響ともに崩れ落ちた。

memo 嘉永の地震

俗に言う安政東海地震は、午前9時過ぎに発生したと言われる。震源地は遠州灘から駿河湾内の全長200キロメートル以上に及び、推定マグニチュードは8.4とされています。

この地震では、伊豆・下田から、遠州灘、伊勢の沿岸にわたって津波が押し寄せて甚大な被害が出ました。

ロシアから、日露条約交渉を進めていたプチャーチン率いるロシア海軍ディアナ号が、長年の交渉の末に幕府側と交渉を始めたのが、この十一月三日の下田でした。

交渉場所は下田・福泉寺で、幕府応接掛主席で大目付の旗本・筒井政憲と勘定奉行の旗本・川路聖謨を相手に協議に入っていました。
強行的な外交で条約を先行させたアメリカと違い、紳士的に日本の条件を飲んで進めていたプチャーチン。

その時に大震災が起きました!

地震に続いての津波でディアナ号も被害を受けましたが、津波で溺れる日本人の救出しました。下田の村は安政の地震で9割が倒壊する大被害を受けましたが、プターチンはディアナ号の船医を派遣して負傷した日本人の治療に充てさせます。

その後、日露交渉にあたっていた幕府は、ロシアに対し印象を変え、スムーズに日露条約交渉を進めることになります。