たちあい

長州藩

「じつは、宮田村にある長州陣屋から使いが参り、滞陣中の士気を鼓舞するため、剣術試合を催したい。と申してきている。土州10人、長州10人を選り抜いて試合をさせる。当然、竜馬がゆく。その時、試合も肝心じゃが、長州陣地をみてこい、というのじゃ。陣内わかったか」
「へへっ」組頭深尾陣内は、平伏しながら、
「竜馬、わかったな」
「はい」
その翌日の未明、品川の土佐藩陣地から、10人の藩士が、それぞれ、荒目の深編笠をかぶり、ぶっさき羽織、野ばかまという旅装で出発した。

竜馬がゆく 

長州・土州の剣術試合は、宮田村の本営の庭でおこなわれた。
やがて益田越中が席につく。
「桂は、まだ戻らぬか。相手先鋒は」
「北辰一刀流の坂本竜馬です」
「あの男か。できそうか」
「さて試合ってみなねばわかりませぬが、多少愚に似たような仁でありまするな」
「大賢は愚に似たりと古語にもいうぞ」
試合はあっけなく終わった。竜馬一人の剣でばたばたと倒され、土州方九人は、ついに竹刀をとらずじまいだった。

竜馬がゆく 

memo 長州の収入

長州藩の公式の石高は37万石。これは幕府に報告する石高で、正直に申告しても上納金が増えるだけなのでどの藩も少なく申請し、安定した天候でお米が収穫された前提。
安定した収入を得るために、逐次新田開発を行い鶴浜を開作し、伊崎を埋め立て今浦港を築港、北前船の回船の寄港地となって藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、莫大な利益を得た。
また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる膨大な収益を得た。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れていた。
その積み重ねで、100万石以上の収入を得ることができた。

その反面、過度な年貢取り立てなどの政策に藩民は悩まされることになる。
定期的に襲われた大飢饉で藩の収入や民の生活は左右され、1831年には百姓一揆が勃発する。続く1833年〜39年に天保の大飢饉が襲う。