徳川斉昭のペリー暗殺計画

徳川幕府

この年三月、竜馬は築地屋敷から品川屋敷に移され、台場の警備を命ぜられた。むろん書生の分際だから、竜馬が自嘲する「雑兵」である。
ペリー艦隊は、どうゆうわけかなお去らず、艦砲を陸上に向けたまま無言の威圧を加えている。諸藩の陣地は緊張しきっていた。
国詰めの藩士たちも江戸へくだってきた。
竜馬ら剣客は重宝された。軽格の出身ながら、毎日、藩士たちの師範格になってはげしい稽古をつけた。
竜馬は、教え方が独創的でうまかったから、かれのもとに多くの藩士があつまった。
品川詰めの家老、山田八右衛門にまで名を知れたのは、この警備隊の剣術教官としてである。

竜馬がゆく1

攘夷派・徳川斉昭

水戸黄門の名で有名な水戸藩。当主の・徳川斉昭がペリー来航の折に暗殺計画を企てていた書簡が発見されました。
水戸藩独自の「水戸学」は、第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想に発展していき、明治維新の思想的原動力になりました。
永6年(1853年)6月にマシュー・ペリーが浦賀来航した際には、老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わりますが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張します。
このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造して弾薬と共に幕府に献上(うち1門が水戸の常磐神社に現存)。
ペリーをいかに国外へ追いやるか思案していた中の資料と思われます。

「酒をたっぷり飲ませて頭をはね」

水戸藩主・徳川斉昭がペリー抹殺計画か…書簡16点発見(2022年12月21日読売新聞)

岡山県倉敷市の旧家で、幕末に攘夷を主導した水戸藩主・徳川斉昭の未発見の書簡16点が見つかった。腹心の藩士で、水戸学の思想家・藤田東湖とやり取りしたもので、来航したペリーら米国の使節団の殺害方法などを詳細に相談する内容とみられる。専門家は「斉昭の実像を深く知るための貴重な史料」としている。

大久保、木戸ら幕末人物史料も

書簡が見つかった、江戸末期から塩田開発で栄えた旧野崎家住宅には、約10万点の文書などが保管されている。今回はその中から、書簡16点のほか、約90点の史料が見つかり、2014年から岡山県立博物館が調査してきた。旧野崎家住宅を管理する公益財団法人・竜王会館が20日、発表した。
見つかった書簡は、斉昭が幕府の海防参与の職にあった1853~55年頃に書かれたとみられる。
「夷人(いじん)焼殺ノ件」と朱書きされ、黒船で江戸の手前まで乗り付けたペリーら米の使節を「墨夷(ぼくい)」と呼び、抹殺する案を詳細に書き付けている。
書簡で斉昭は「仕掛けをした屋敷に入れてしまえば一度に焼き殺せるのではないか」「江戸城内の大広間で上官らに酒をたっぷりと飲ませて頭をはね(中略)品川の辺りに待機したものには狼煙(のろし)を上げて知らせる。船中に残ったものも残さず切り捨てられる」といった計画を記している。

(2022年12月21日読売新聞より)

調査した県立博物館の横山定副館長は「腹心の東湖に率直な意見を述べており、一貫した攘夷思想を唱えた斉昭らしさがうかがえる印象的な書簡で、貴重な発見だろう」と話している。
約90点の史料の中には大久保利通、木戸孝允、岩倉具視ら幕末に活躍した人物の書簡もあり、岩倉に対し、大久保が朝議で取り上げる議題を事前に伝えるものや、木戸が手紙などへの礼を述べる内容が含まれている。

「酒をたっぷり飲ませて頭をはね」水戸藩主・徳川斉昭がペリー抹殺計画か…書簡16点発見
【読売新聞】 岡山県倉敷市の旧家で、幕末に攘夷を主導した水戸藩主・徳川斉昭の未発見の書簡16点が見つかった。腹心の藩士で、水戸学の思想家・藤田東湖とやり取りしたもので、来航したペリーら米国の使節団の殺害方法などを詳細に相談する内容と