ペリー再来_百川

江戸落語の世界(芸能・娯楽)

去年にやってきたアメリカのペリー総督が、正月の十四日、ふたたび艦隊をひきいて再来し、さきに幕府に呈上した通商開港に関する国書の返答をきびしく要求しはじめたため、諸藩の沿岸警備隊は再び臨戦状態に入り、竜馬も黒船が去るまでのあいだ、築地の藩邸に詰めっきりになった。

竜馬がゆく 1

徳川幕府のおもてなし

嘉永七年正月14日に再来日したペリー将軍一行と徳川幕府の間で行われた初交渉は、江戸日本橋浮世小路(日本橋伊勢町塩河岸)の料理屋「百川」で行われました。当時の瓦版によれば、「百川」は2千両で仕出し料理を提供する契約を結んだようです。

日本人にとっては、本膳二汁五菜の献立は非常に豪華な食事でした。このような料理は通常特別な機会や高位の来賓の接待に用いられるものであり、ペリー一行をもてなすために特別に用意されたものでした。

一方、アメリカ人の反応については具体的な記録が残っていないため、その詳細はわかりません。しかし、当時の西洋人にとっては日本の伝統的な食事スタイルや食材には慣れていなかったことから、興味深い体験だった可能性が考えられます。

こうした日米和親条約の初交渉は、日本とアメリカの文化や外交の交流の一端をなす重要な歴史的なイベントであり、当時の様子を知る貴重な記録となっています。

ペリーを接待した記事の当時の瓦版

(知らなかった江戸の暮らし<武士の巻>より)

百川楼

百川楼が出来たのは明和・安永(1764~81)の頃。
天明(1781~87)の頃には、卓袱料理屋として名の知られたお店となり、文化文政(1804~30)の頃には本膳料理の高級店として繁盛しました。 
1人分の食事代金は安く済ませても現在のおよそ1万円相当といわれています。

江戸時代には今でいう「グルメガイド」のようなものも数多く発行され、「狂歌懐石料理双六(きょうかかいせきりょうりすごろく)」(双六形式で有名店を紹介するもの)には、山谷の八百善、深川の平清(ひらせい)等の名だたる高級料亭と並んで、百川の名前も見られます。

幕末に、ペリーのおもてなし料理を任された百川ですが、その数年後、明治に入り忽然と店を閉めたと言われています。閉店の経緯が全く残ってなく、謎につつまれています。

現在の住所では、東京都中央区室町2-2と2-4の間、ちょうど三越本店の斜め向かい側。今は福徳神社がある場所に百川があったそうです。

落語 百川(ももかわ)

百川楼が宣伝のために作ったとも言われている落語

江戸時代に実在した料亭「百川楼」がモデルであるとされる落語。
6代目三遊亭圓生の十八番(おはこ)。
古今亭志ん朝師匠の気っぷのいい河岸の若い衆は必聴です。

あらすじ

日本橋の浮世小路の料亭「百川」に田舎者の百兵衛が奉公することになります。
田舎者という事もあり素直で人が良さそうなので主人は気に入りましたが、田舎訛りがひどく会話がままならないのが悩みの種。
奉公早々ですが、二階の魚河岸(かし)の若い衆達の用事を聞きに行くことになります。
河岸の連中は、去年の祭りで金を使いすぎて、祭具の四神剣を質入れしたままで、祭りまでにどうやって請け出すか話し合っていました。

百兵衛が「あたくし、主人家の(しじんけぇ〜の)抱え人でごぜぇましてなぁ」と挨拶するが
「あたくし、四神剣の掛け合い人でございましてな」と祭りの役員が、田舎者のふりをして催促に来たと勘違いし、若い衆一同が恐縮。

よくよく聞くと田舎者の奉公人とわかった若い衆達。人を連れてきてほしいと使いを出すものの、あちらこちらで、言葉が通じなくて大騒ぎになります。

田舎言葉の百兵衛と、高級料亭で遊ぶ生粋の江戸っ子の、気っぷのいいしゃべり口調のコントラストが楽しい落語です。