13代征夷大将軍 徳川家定

徳川幕府

嘉永六年十月二十三日

memo 13代征夷大将軍 徳川家定

嘉永六年10月23日 十三代征夷大将軍 に就く。

第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。

家定は元々悪かった体調が将軍就任以後はさらに悪化し、廃人同様になったとまで言われている。

カステラや饅頭を作ったりするなど、菓子作りが趣味だったとされている。

将軍在職中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化した安政4年(1857年)頃からは、それが激化する。
家定の後継者候補として、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。

家定はこの間にも表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年6月25日(1858年)、諸大名を招集して慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を伝え、安政5年7月5日(1858年8月13日)に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後であった。
安政5年7月6日(1858年8月14日)、薨去。享年35。後を養子となった慶福改め家茂が継いだ。家定の死により、家慶の血筋は断絶した。