蛤御門の変

徳川幕府

奇襲であった。幕府は誤算した。長州藩の行動開始は十九日と見、その日を期し、戦備を整えた。
その数、五万である。帝都の内外にこれだけの戦闘員があつまったのは、室町末期の応仁の乱いらいのことであった。
幕府はさらに誤算した。
この作戦は、やがては十五代将軍になる禁裏御守衛総監の一橋慶喜が立てた。

竜馬がゆく5 P151

「禁門の変」「蛤御門の変」の名称は、京都御所の門(禁門と呼ばれる)を中心に戦われたこと、中でも蛤御門周辺が最激戦地であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には当時の弾痕が残っています。

蛤御門

長州藩の蛤御門の変

八月十八日の政変で、京から追放された長州藩。池田屋事件で同士が殺害されたことに怒り、京都に進軍してきた事件

文久三年(1863年)八月十八日の政変で、中川宮・薩摩藩・会津藩からだまし討ちのように京都を追われて失権した長州は、なんとか朝廷とのつながりを戻そうと模索続けていました。
積極策を主張するのは、国許の攘夷派・来島又兵衛や真木保臣ら。
一方で過激な攘夷より国力・軍事力をつけ富国強兵を目指す大攘夷派の桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ら現場で働く若手メンバー。
積極派の来島又兵衛らは、業を煮やして、元治元年(1864年)6月4日に2000人の兵を動かして京にのぼります。
ちょうど同じタイミングで、会津藩の手先・新撰組が長州派が集まる池田屋などを強襲、池田屋騒動を起こして何人もの同士を失ってしまいました。この一件で長州藩はぶちギレ!
長州きっての頭脳派・久坂玄瑞も強硬派といっしょに戦う決意をします!

上京した来島又兵衛らの兵士は「冤罪を孝明天皇に訴える」と言うスローガンのもと、天王山に陣をとって京の町をぐるりと取り囲み要望の圧力をかけました。

幕府軍の蛤御門の変

文久三年(1863年)5月に、長州藩が下関で外国船に無差別攻撃を開始。その後、外国船にあっさりとやられてしまう事件が勃発。

諸外国と友好関係を結ぶ糸口を探していた徳川幕府はこの事件にぶちギレ!
幕府は薩摩藩・会津藩とともに、天皇の勅使をうけて、文久三年(1863年)八月十八日に攘夷(外国排除)思想の長州藩と長州派の宮家を京から排除します。(八月十八日の政変)

その後も長州藩と長州派の浪人たちが京の町に潜伏して物騒な行動をおこそうとする噂が飛び交います。「京の町に火をつけて、その騒動のうちに天子様(天皇)をさらってしまおう」という噂まで聞こえてきました。
京を守る守護代会津藩と、新撰組は長州派の動きを探し回り、ついに密会の日時と場所を手に入れます。密会場所の池田屋を始め長州派の拠点を一夜にして取り締まりました。(池田屋騒動)

7月19日 蛤御門にて

7月19日、長州藩と会津藩・長州藩が御所の蛤御門付近で衝突。戦闘が始まります。

来島又兵衛が御所内への進入に成功するも長州藩の攻勢はここまで。多勢に無勢の中、来島又兵衛は狙撃され、最後は自害。享年48歳。

久坂玄瑞は最後まで朝廷との話し合いの希望を捨てず、公卿の鷹司輔煕(たかつかさひろすけ)の元へ向かい、命がけで長州藩の地位回復を懇願しますが、鷹司輔煕はこれを拒否。希望を失った久坂玄瑞は、鷹司邸にて自害。久坂玄瑞は25才で生涯を閉じます。

長州藩は、長州藩屋敷に火を放ち撤退。会津藩も長州藩士が潜んでいそうば場所へ放火し、京都は大火災に見舞われます。
火災は3日間に渡って続き、公卿の邸宅も数十件が焼け、そのほか京都市内の家屋は2万戸以上が消失。死者も数百名にのぼるという大惨事となりました。

長州ピンチ!

京の天子さま、徳川幕府、会津藩・薩摩藩、それに門司を通行する外国船、全てを敵に回して四面楚歌の長州藩。
絶望的な状況から、いかに逆転できたのか!