寺田屋お登勢

寺田屋お登勢 幕末の女性

「じゃ、その薩長連合を遂げれば」とお登勢が思わず膝をすすめると、
竜馬は手で制し、
「おいおい、声が大きすぎる。近所に聞こえるわぃ」といった。
「きこえやしませんよ。ここは2階だし、ご近所はもう寝静まっていますから」
「軒下を幕府の偵使が歩いちょる」

(龍馬がゆく 6 P154)

寺田屋お登勢

1829年近江大津の宿の旅館主 大本重兵衛の次女として生まれる。(2013年に大津・丸屋町で「升屋」と言う宿を経営した重助の次女で、兄弟が4人いたことも判明)
18歳の時に伏見寺田屋の6代目伊助に嫁いだ。伊助は放蕩者で大酒が祟って元治元(1864)年9月に亡くなります。宿はお登勢が主人となって切り盛りすることになりました。
自身の子供一男二女にくわえて捨子を5人分け隔てなく育てていました。そんな人柄を見込んで頼ってくる人たちも身分関係なく面倒を見ました。
お登勢は「人の世話をするのが唯一の道楽」と公言するほどでした。

寺田屋事件

文久2(1862)年4月23日には、寺田屋に集結した尊王攘夷派の薩摩藩士が、島津久光の命を受けた同藩士に斬殺されるという事件(寺田屋騒動)が起こります。
事件後、 薩摩藩は乱闘によって破壊された寺田屋の修復と迷惑料の他に、藩士同士の斬り合いになったことの口止め料として、多額のお金を寺田屋に届け、その資金でお登勢は使用人らに畳や襖を交換させ、営業を再開しました。
お登勢はその後、毎月23日には事件で亡くなった藩士を宿の仏壇で供養した。
この事件を納めてくれた事を恩に感じた薩摩藩は、寺田屋お登勢をより一層信頼するようになりました。

寺田屋と龍馬

伊助が元治元(1864)年9月に亡くなり、登勢が店の業務の一切を取り仕切るようになった翌年、慶應元(1865)年夏頃からは、坂本龍馬が寺田屋を常宿として使うようになる。これも龍馬が薩摩藩の紹介を受けてのことであったようだ。龍馬が仲介した薩長同盟の成立直後、慶應2年1月23日に寺田屋で幕府の役人に襲撃された際、のちに妻となるお龍の通報で救われたという話はよく知られる。お龍はこのとき、登勢の娘分として寺田屋に置かれていた。
(新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』新人物往来社)

坂本龍馬もお登勢を頼り、土佐の手紙や助けたお龍を託したりしました。お登勢もお龍を可愛がり宿で働かせていました。寺田屋の龍馬襲撃事件の後も、龍馬はお登勢に手紙を送り泣き言や頼み事をするほど大いにお登勢を信頼していました。(歴史魂 日本のヒロイン)

龍馬の捕獲失敗以降は、薩摩側のお登勢は危険人物とされて、伏見奉行所からにらまれ、何度か入牢されそうになりました。

明治10(1877)年9月7日死去

寺田屋 (伏見寺田屋)

幕末の英雄・坂本龍馬が襲撃された場であり、悲劇の事件として名高い「寺田屋騒動」の舞台となった、京都・伏見の名観光スポット。

伏見寺田屋

TERADA-ya

かつての寺田屋は、鳥羽・伏見の戦いで焼失しており、現在その跡地には、坂本龍馬の像や薩摩九烈士の碑など、幕末の動乱を現在に伝える史跡が残されています。
寺田屋跡地の隣には、かつての寺田屋を再現した「旅籠 寺田屋」があります。館内の柱には、弾痕があったり、刀傷があったりと、幕末の動乱の爪痕を見ることができます。

2階には、当時の女将であったお登勢が龍馬に奨めて、町の画家に書かせた肖像画など、坂本龍馬や「寺田屋騒動」に関する多くの品々を見ることができます。京都でも貴重な「幕末」の歴史を体験できるスポットです。

お龍が裸のまま飛び出したという伝説の五右衛門風呂や、龍馬が応戦したときに使用したピストルも見られます。(レプリカ)

2階に駆け上がった階段は、かなりの急勾配で狭く、腰刀は邪魔になって、一気に多くの人が駆け上がれない構造。