薩長同盟

竜馬がゆく

竜馬はだまっている。
やがて火鉢のふちをつかみ、
「委細は桂君から聞きました」と、迫るようにいった。
「ほう」
「西郷君、もうよいかげんに体面あそびはやめなさい。いや、よい。話はざっときいた。桂の話をききながら、わしはなみだが出てどうにもならなんだ。」
竜馬は、「薩州があとに残って皇家につくすあらば、長州が幕軍の砲火にくずれ去るとも悔いはない」という桂の言葉をつたえ、
「いま桂を旅宿に待たせてある。さすれば、これへよび、薩長連合の締盟をとげていただこう」
竜馬はそれだけを言い、あとは射るように西郷を見つめた。

竜馬がゆく6 P244

慶応2年(1866年)1月21日頃
薩長同盟、成立する。薩摩藩士小松帯刀の京都別邸において、薩摩藩代表の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利道らと、長州藩代表の桂小五郎(木戸孝允)が会談し、桂は長州藩の罷免をはらすための朝廷工作を西郷に要請する。6ヶ条からなる盟約の調印には、両藩の間を周旋した坂本龍馬が立ち会った。
(幕末維新史年表/東京堂出版)

竜馬自筆の裏書

薩長同盟が倒幕目的の軍事同盟はウソ

朝敵となって孤立した長州藩の復権が目的であり、両者はその具体策を話し合っていた。同盟が結ばれた段階では、両藩は幕府を倒そうとまでは考えていなかった。

幕末通説のウソ 彩図社2019発行

薩摩藩
徳川家系の政府から有力藩の連合政権の樹立を目指している西郷隆盛。
このまま長州藩がつぶれると、次に目をつけられるのが薩摩藩になる。
薩長同盟を締結することで、長州討伐参加を回避して薩摩藩の国力低下を避けることが得策。
長州を復権させて、独裁する徳川幕府の暴走を抑えていきたい。

長州藩
文久3年の「8月18日の変」で徳川の政略もあり朝廷から朝敵とみなされ京から追い出されている。第一時長州征伐で充分に長州藩の方針変換をしたはずなので、「朝敵の汚名」を返上して長州藩を復権したい。
他藩からも孤立していた状態を解消したい。
併せて、薩摩藩を経由して武器を手に入れることで、海外からの防備や、長州藩軍部の近代化を急ぎたい。

薩摩藩 小松帯刀(1835生/31歳)西郷隆盛(1828生/38歳)
長州藩 木戸孝允(1833生/33歳)
亀山社中 坂本龍馬(1836生/30歳)中岡慎太郎(1838生/28歳)

「薩長同盟」の真実

薩長同盟の6ヶ条は薩摩藩が長州藩をどのようにサポートするかが中心。たとえば、「京に2,000の兵を送る」の数字は倒幕するには少なすぎて、あくまで朝廷に圧力を掛けるために力を貸す程度の兵力です。

唯一、「一橋慶喜・会津松平・桑名松平」(一会桑政権いちかいそうせいけん)が妨害するなら、薩摩藩は挙兵も辞さないと約束しました。

慶応2年(1866年)1月8日。薩摩藩の命令系統から外れていた黒田清隆が、単独で長州に潜入して木戸孝允(桂小五郎)を上京させ、京都の小松帯刀邸に滞在させます。
近々徳川幕府が下す処分(第二次長州征伐のきっかけ)を巡って、小松と西郷は、受け入れるよう勧めます。

しかし木戸孝允の認識は、第一次長州征伐の時に様々な処分を受け入れて、長州藩は充分に罰を受けいると追加処分を断固として拒否。

薩摩藩に対しては、長州藩主が剥奪された官位の復帰や長州藩復権へのさらなるサポートを要求しました。

徳川幕府独裁から、雄藩連合に政権を移したい小松・西郷は、今後に長州藩の力が必要なことは充分にわかっています。
今回の一件は薩摩藩を仕切っている島津久光の同意は後から取れると判断しました。

薩長同盟締結は18日だった

1月18日。薩長の連携に向けた国事会談をひらきます。
薩摩藩は、長州藩が処分内容を拒否することを黙認。長州藩主親子の復権への斡旋も薩摩藩がサポートすることを話し合いました。

1月21日。帰国直前の桂小五郎は、今回の国事会談を書状という形で国もとに持って帰りたいと考えます。
この時に居合わせた小松帯刀・西郷隆盛・坂本龍馬らの前で会談で成立した6箇条を確認しながら書状に起こしました。

そして、薩摩・長州に通じた人物で、この会合に居合わせた薩長では無い第3者・坂本龍馬に証人を頼み、龍馬は「この書状にある話し合いが確かに行われた」と朱い文字の裏書きを記しました。
(以上 歴史人2019.12 坂本龍馬の真実 より抜粋)

薩摩藩・長州藩お互いが頭を下げるのが面子がつぶれるといやがり、何日も薩摩藩のごちそう責めだけで話し合いができなかった所を、坂本龍馬が西郷を叱り飛ばして成立させた・・。
という一次資料はなく、明治以降の創作といわれています。

薩摩藩が長州藩の代わりに武器を調達する事や、長州藩の米や食料を薩摩藩に融通したのは、「坂本龍馬・亀山社中」が2藩の不足しているものを取引させてその見返りに亀山社中が船を手にいれるという商売でした。
この行為は、2年前から対立していた薩長が、話し合いの場を持とうという機運が生まれた要因の一つだったといえます。

薩長同盟6ヶ条(意訳)

(1)幕府と長州の間で戦となった時には、薩摩藩はすぐに2,000の兵を出す

(2)戦局が不利になっても、薩摩藩は朝廷へ上申して長州藩のために尽力する。

(3)万が一、敗戦濃厚でも長州藩は半年や1年では壊滅しないので、長州藩がある限り尽力して欲しい。

(4)長州が勝っても、勝負なく幕府が江戸へ戻っても、そして長州が負けても、壊滅するまで朝敵の冤罪を許してもらえるよう尽力して欲しい。

(5)幕府が兵力を増強し、会津・桑名藩なども強硬の姿勢をとり続けるときは、薩摩藩は幕府と決戦に及ぶ。

(6)長州藩の冤罪が晴れたら薩長双方とも一体化し、皇国のため、皇威発揚のため、きっと尽力する。