伊藤博文

長州藩

伊藤博文

井上は上士階級の出身だが、伊藤俊輔は下士階級でさえない。百姓の出で、年少のころに侍屋敷の走りづかいなどし、たまたま隣家の子弟だった吉田稔麿(池田屋の変で闘死)がこの男を愛し、故吉田松陰のもとにつれて行った。
「俊輔、周旋の才あり」
と松陰はそんな点をほめている。周旋とは政治的な折衝と言っていい。

竜馬がゆく6 P121

慶応元年(1865年)6月24日
土佐の坂本龍馬、薩摩藩士西郷隆盛と会見し、亀山社中を介して、薩摩藩名義で長州藩に武器を納入する取り決めをする。

幕末維新史年表(東京堂出版) より

長崎で軍艦を買う
実際に買うのは長州藩である。当然のことながら、長州藩から人が出張せねばならない。
「その人選だが」「理屈ばかりの頭でっかちはこまる」
と、竜馬はいった。観念主義でない男をのぞんだ。
・・・
「物の見える男」をのぞんだのは、そのことである。
「ちょうどいいのがいる」といって、その翌朝、桂がつれてきたのはふたりの若者である。
・・・
「こちらが井上多門、むこうが伊藤俊輔という」

竜馬がゆく6 P120

農民の家に生まれ、14歳の時に足軽(身分の低い武士)になる。17歳の時に松下村塾に入ったが、身分が低いことに引け目を感じ、最初は塾の外で立ち聞きしていたという。
文久三年(1863年)井上馨らとイギリスに留学すると(長州ファイブ)西洋の進んだ社会を見ておどろき開国派になった。翌年(元治元年1864年)、西洋の連合艦隊が長州藩を攻撃することを知った博文は、急いで帰国。
第一次長州征伐で存亡の危機を迎えた長州藩を立て直すために奔走。

明治にはいり、明治18年(1885年)初代内閣総理大臣。1次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となる。

伊藤博文の改名

幼名 林利助 
   伊藤利助
改名 伊藤俊輔(高杉晋作命名/吉田松陰から俊英の俊を与えられた)
変名 越智斧太郎
   花山春輔
   デボナ(デポナー)イギリスから帰国時、外人になりすました
   花山春太郎
   吉村荘蔵
   林宇一
改名 伊藤博文(明治二年頃/高杉晋作命名)

デボナ(デポナー)は、イギリス留学から帰国の時。密航で渡英していたため、当時国交のあるポルトガル人の(デボナ)に扮して入国しました。

俊輔、博文の名付け親は高杉晋作

「高杉は面白い男で、しきりに俺の名前の世話を焼いた。」(伊藤公全集より)
とあるように、伊藤博文を気に入っていた高杉晋作は、博文の名をあれこれ名付けました。
皆んなからの愛されキャラの伊藤博文を「自分に持っていないものを持つ伊藤」と特に目をかけたのではないかといわれています。

博文の由来は、論語にある一節「博文約礼」から、道理を究め礼をもってすれば道に背くことがないという意味を込めて名付けました。

(西東社 幕末維新人物大辞典より)

力士隊

高杉晋作を慕っていた伊藤は、晋作のクーデターの折には、いの一番でかけつけました

元治元年12月、高杉晋作が長州藩内クーデターを起こす(功山寺挙兵)。
伊藤博文は、相撲取りをあつめた『力士隊』を率いて一番に駆けつけた。のちに博文はこのことを「わたしの人生で唯一誇れることだ」と語っている。

(西東社 幕末維新人物大辞典より)

1,000円札紙幣

伊藤博文C号券 1963年(昭和38年)11月1日から、1986年(昭和61年)1月4日まで発行されました。 表面には伊藤博文が、裏面には日本銀行が描かれています。

色々な文化を作った伊藤博文

下関のふぐ

下関の料亭に入った博文。しかし残念のことに海がしけっていて満足な魚がない。おもてなしができないと困った亭主が、江戸時代からのご禁制の「ふぐ」を料理してだしました。
たまたまこれしか無く(隠れては食べていましたが)白身魚なので判らないだろうと思っていたところ、
「これはとても旨い。何の魚だ?」と言うことになり、亭主は仕方なく「ふぐ」だと白状をします。

こんな美味しいなら解禁しよう と言うこととなり、伊藤博文のおかげで、庶民がおおっぴらにふぐを食べられるようになりました。

安芸(広島)のもみじまんじゅう

伊藤博文が、宮島の名所・紅葉谷の旅館「岩惣」の茶屋で休憩していた時お店の女の子が気に入り、給仕した娘の手を見て、
「いゃ〜モミジのような手をしてるね。たべちゃいたいね〜」と発言。

岩惣の女将がこの発言を聞ていて、地元の名物を考えていた和菓子屋がこの話をヒントに
食べちゃいたいモミジの「もみじまんじゅう」を販売して、今でも名物になったと言われています。

伊藤は当時から厳島を気に入り、たびたび島に滞在していたことと、「女好きの好々爺・博文」というイメージが民衆の間に確立していたこともあり、伊藤博文のもみじまんじゅう説は広く受け入れられています。