伊藤博文

長崎で軍艦を買う
実際に買うのは長州藩である。当然のことながら、長州藩から人が出張せねばならない。
「その人選だが」「理屈ばかりの頭でっかちはこまる」
と、竜馬はいった。観念主義でない男をのぞんだ。
・・・
「物の見える男」をのぞんだのは、そのことである。
「ちょうどいいのがいる」といって、その翌朝、桂がつれてきたのはふたりの若者である。
・・・
「こちらが井上多門、むこうが伊藤俊輔という」

竜馬がゆく6 P120

井上は上士階級の出身だが、伊藤俊輔は下士階級でさえない。百姓の出で、年少のころに侍屋敷の走りづかいなどし、たまたま隣家の子弟だった吉田稔麿(池田屋の変で闘死)がこの男を愛し、故吉田松陰のもとにつれて行った。
「俊輔、周旋の才あり」
と松陰はそんな点をほめている。周旋とは政治的な折衝と言っていい。

竜馬がゆく6 P121

農民の家に生まれ、14歳の時に足軽(身分の低い武士)になる。17歳の時に松下村塾に入ったが、身分が低いことに引け目を感じ、最初は塾の外で立ち聞きしていたという。
文久三年(1863年)井上馨らとイギリスに留学すると(長州ファイブ)西洋の進んだ社会を見ておどろき開国派になった。翌年(元治元年1864年)、西洋の連合艦隊が長州藩を攻撃することを知った博文は、急いで帰国。
第一次長州征伐で存亡の危機を迎えた長州藩を立て直すために奔走。

明治にはいり、明治18年(1885年)初代内閣総理大臣。1次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となる。

力士隊
元治元年12月、高杉晋作が長州藩内クーデターを起こす(功山寺挙兵)。
伊藤博文は、相撲取りをあつめた『力士隊』を率いて一番に駆けつけた。のちに博文はこのことを「わたしの人生で唯一誇れることだ」と語っている。

(西東社 幕末維新人物大辞典より)

伊藤博文の改名

幼名 林利助 
   伊藤利助
改名 伊藤俊輔(高杉晋作命名)
変名 越智斧太郎
   花山春輔
   デボナ(デポナー)
   花山春太郎
   吉村荘蔵
   林宇一
改名 伊藤博文(明治二年頃/高杉晋作命名)

デボナ(デポナー)は、イギリス留学から帰国の時。密航で渡英していたため、当時国交のあるポルトガル人の(デボナ)に扮して入国しました。

俊輔、博文の名付け親は高杉晋作
「高杉は面白い男で、しきりに俺の名前の世話を焼いた。」(伊藤公全集より)
とあるように、伊藤博文の名をあれこれ名付けたらしい。
皆んなからの愛されキャラの伊藤博文を見て高杉晋作は、自分に持っていないものを持つ伊藤に特に目をかけたのではないか?といわれています。

博文の由来は、論語にある一節「博文約礼」から、道理を究め礼をもってすれば道に背くことがないという意味を込めて名付けました。

(NHK/日本人のお名前 2021年 より)

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