馬関戦争

幕末の女性

のちに明治陸軍の創設者の一人になった山縣有朋、当時まだ若かった足軽上がりの山形狂介が、壇ノ浦砲台の隊長になり、眼前に展開する西洋艦隊を見ながら、酒樽十丁のカガミをポンポンと抜き、
「さあ、何はなくとも眼下に並んだ夷艦十八隻、あれを肴にぞんぶんに飲んでくれい」といったのはこのときである。
また、
 男なら、男なら、
 お槍がついでお中間になって
 ついてゆきたや馬関まで
という俚謡がはやったのもこのときであろう。

竜馬がゆく5 P390

四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争・下関戦争)

攘夷(諸外国を追い払う)を皇に進言していた長州藩は、文久三年(1863年)五月十日から下関を通過していたアメリカ・フランス・オランダの船を次々に攻撃。
しかし翌6月にアメリカ・フランスからこっぴどく反撃を受ける事件がありました。(下関砲撃事件

諸外国は徳川幕府を通じて長州藩への処罰と賠償を要求しましたが、当時の幕府の統治力では長州の攘夷主義勢力を抑止することはできません。
しびれを切らした諸外国は、翌年元治元年(1864年)8月5日に実力行使にでます。イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻からなる全17隻の連合艦隊を結成。
圧倒的な攻撃力で長州・下関の砲台をことごとく破壊すると、上陸して内陸部へ進軍を開始します。
旧式の銃や弓矢で対抗する長州軍ですが、新式の銃砲や戦闘方法をもつ外国部隊相手では相手にならず、敗戦を重ねることに。

下関に到着した連合艦隊

高杉晋作が停戦の交渉役にとなりましたが、下関の先端にあたる彦島を植民地にされることを防ぐのが精一杯で、連合軍側から前年の下関事件の処罰、賠償の要求をほぼ全て受け入れることになりました。

(幕末維新人物大辞典より抜粋)

7月の蛤御門の変と、この馬関戦争によって長州藩内の攘夷派は追いやられ、幕府に味方する勢力が藩内の実権を握ることになります。

占領した砲台の大砲は、四カ国連合体に没収されて国外に持ち出され、軍事博物館に展示されるなどされていました。
のちに作家の古川薫氏などの尽力で日本に里帰り。下関市立歴史博物館に展示されました。
この事件は、蒙古襲来になぞった絵など数多くの刷り物として全国に伝わりました。

(幕末維新史年表/東京堂出版より抜粋)

講和の条件

四国艦隊の攻撃はわずか四日で終了。長州藩は壊滅的な被害を受けることになります。この後、講和が行われ、諸外国と長州藩の間で次の条件で手が打たれました。

  • 1 下関の外国船通航を認めること
  • 2 外国船の要求があったら水とか食料をちゃんと売ること
  • 3 船が遭難した時に下関に着港することを許可すること
  • 4 下関の砲台を全て撤去すること
  • 5 300万ドルの賠償金を払うこと

こんな金額を長州藩が払えるわけがなく、「江戸幕府が長州藩を抑えきれなかったのが悪い」という超理不尽な理由により、この300万ドルは全て幕府が請け負うことになります。

四国艦隊がわざと巨額の賠償金を要求したのは「賠償金が払えないなら私たちの要求に従え!」と賠償金を交渉カードに、日本にさらなる要求を突きつけるためでした。

賠償金免除の条件
条件1: 延期していた兵庫港を開港せよ
条件2: 外国との条約締結を天皇にもちゃんと認めさせよ
条件3: 日本への輸入品にかかる関税を下げろ

男なら(山口民謡)

山口県萩市とその周辺で謡われている民謡。
萩で留守を守る藩士の妻や子供たちが築いた土塁、通称「女台場」を建設中に諸隊士の妻や子供たちによって謡われたものが元となっています。

男なら
お槍かついで お中間となって
ついて行きたや 下関
お国の大事と聞くからは 
女ながらも武士の妻
まさかのときにはしめだすき
神功皇后さんの 雄々しい姿が 
鏡じゃないかいな オーシャリシャリ

1番の歌詞は「(もしも自分が)男だったなら、槍を担いで中間(ちゅうげん)として下関について行き、(外国との戦争に参加し)たい。自分も女ではあるが、武士の妻であるから、(外国の軍勢が萩に攻めてくるようなことがあっても)神功皇后のようにこの国を守る」