高杉晋作 奇兵隊を結成

長州藩

長州の沿岸砲台は、外国軍艦との交戦で完敗した。
砲兵だけでなく、長州海軍も二隻の軍艦を失って、完敗した。
さらに長州藩を極度に緊張させたのは、六月五日、フランス艦隊と戦って敗北した陸軍の敗報である。
これは藩庁を狼狽させた。
「陸軍ならば」
と思っていたのだ。
日本じゅうの武士がそうおもっていた。

翌日、山口の藩庁に、維新回天史上の天才高杉晋作をよび、すぐ起用している。
高杉は、すぐ「奇兵隊」の構想を言上し、即座に認可されるや、下関(馬関)にとび、ここで士農工商の階級を撤廃した志願兵軍隊を創設している。
これが敗戦の翌日の六月六日。
高杉晋作、このとき二十五歳。
竜馬は、高杉とはまだ一面識しかない。

竜馬がゆく4 P65

高杉晋作、奇兵隊結成

下関砲撃事件の逆襲

文久三年5月10日、長州藩は、尊王攘夷を掲げて下関を通るアメリカ商船を砲撃します(下関砲撃事件)。
アメリカは軍艦を投入し6月1日に報復。下関湾内の長州艦隊や湾岸の砲台が壊滅し、大敗をきしました。

海上はおろか、武士の主戦場の陸上戦であっさりと外国兵に破れてしまった長州藩は、武力強化が急務に。
高杉晋作が「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」と周布政之助に進言すると、長州藩主・毛利敬親の許可が出て下関防備を命じられます。
高杉は私設部隊を募集して奇兵隊を設立。志願兵による部隊は、藩士だけでなく藩士以外の武士・庶民、農民など、身分にこだわらず入隊させました。

奇兵隊設立には下関の豪商・白石正一郎が私財を投げ打って援助することに

下関についた 白石正一郎


しかし、当初は武士以外を混じる混成部隊は、武士が編成する正規隊らは小馬鹿にしていました。
そのうち、藩士が組織する撰鋒隊の「百姓兵!烏合の衆!」などとバカにした事がきっかけでいざこざが発生。お互い奇襲をかけてついには死者を出す騒ぎに。
この事件の責任を問われた高杉晋作は結成からわずか3ヶ月程で奇兵隊総督を罷免されることに。

長州最強の立派なソルジャー軍団

高杉晋作は師匠である松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』で学んだ西洋の戦闘を取り入れ、近代的な最強部隊を目指しました。
江戸時代の戦法は、指揮官を中心に密集して相手とぶつかり合う方法でしたが、それでは鉄砲隊の餌食になります。そこで、全ての兵に鉄砲を持たせ、指揮官の指示が届かなくても1人で判断して戦えるように訓練しました。
農民上がりの兵にも鉄砲の使い方から、一人で戦地を走り回る体力強化、さらには兵法の考えや孟子などの「教養」も教育しました。そうして育てた奇兵隊は、長州最強の立派なソルジャー軍団になります

長州軍奇兵隊

長州藩には100もの諸隊があった中で、なぜ奇兵隊が有名なのかと言うと、その「強さ」に他ありません。
のちに幕府軍と長州軍が戦った「第二次長州征伐」の時には、幕府側の史料に戦った相手を「長州藩兵」ではなく「奇兵隊」と記述するほど際立っていたのです。
奇兵隊中心ではない戦いにも記述されるほど、強力な長州藩部隊=奇兵隊の名がとどろいていました。

実は四民平等ではなかった!

身分を問わず広く募集した奇兵隊は「四民平等の近代軍」で一般市民が多く集まった組織と思われていますが、隊の主力はやはり武士が仕切っていました。隊員の半数は武士が占めていて、農民が4割、そのほか商人の白石などが1割という割合です。多くの兵を集めるために農民らも入隊しましたが、農家の次男や三男など後継になれない者を脅すなど半ば強引にかき集めていました。
武士以外のものは「匹夫(ひっぷ/身分のいやしい男。また道理をわきまえない男。)」と呼んで区別し、身分によって部隊の着物も区別し、使える生地や色までも細かく指定しました。