グラバー商会

諸外国

翌日、軍艦買いつけに出かけた。
「どこで買うのであります?」と、俊輔は饅頭屋に聞いた。
饅頭屋は得意そうに、「大浦海岸でござるよ」
大浦海岸には、欧米の貿易商人の商館がずらりとならんでいる。
「英国人で、グラバーという者です。大浦海岸最大の商館で、すでに話はつけてあります。けさも社中から高松太郎などが行っていて、われわれの行くのを商館で待っています」
「それはなにから何までどうも」と、聞多がいった。
海岸までゆくと、なるほど、この一角だけが西洋のようであった。

グラバーは待っていた。
一同を奥の私室に案内し、愛想よく接待した。
会話はさほど不自由しなかった、聞多、俊輔はわずかな日数とはいえロンドンに行っていたし、饅頭屋も片言ながらしゃべれるし、グラバー自身もすこしは日本の武士のことばが理解できた。
「引きうけましょう」と、グラバーはいった。
「物を売ることはセッシャの仕事ですから」

竜馬がゆく 6 P138

トーマス・ブレーク・グラバー

(英: Thomas Blake Glover)1838年6月6日 生まれのスコットランド出身の商人。父はイングランドからの移住者、母はスコットランド。

彼が一攫千金を夢見て東の果ての中国に来たのは、アヘン戦争後の1858年頃で、わずか19か20歳の時でした。
安政6年(1859年)9月19日に開港したばかりの長崎に到着。上海の密貿易で繁栄しているジャーディン・マセソン商会の長崎代理人のケネス・マッケンジーの元で働き出しました。
文久元年(1861年)長崎外国人居留地が完成して、南山手二十一番地を借ります。マッケンジーが中国に赴任することとなり、ジャーディン・マセソン商会、デント、サッスーンの各商会の長崎代理店を引き受けることになりました。(グラバー23歳)
グラバーの商いは小規模でしたが大企業のエージェンシー(代理店)として規模を広げていき、文久二年(1862年)に来日した2人の兄などを共同出資社とした「グラバー商会」を設立しました。

文久二年は、幕府が初めて中国に貿易船・千歳丸を上海に派遣。長州藩の高杉晋作や薩摩藩五代友厚も水夫などの名目で動向して新式の武器や軍艦の必要性を実感することとなります。(この時に高杉晋作が買って帰ったライフル2丁のうち1丁を龍馬に渡したと言われています)

薩長同盟へ手助け
慶応元年7月長州藩のために薩摩藩名義で武器・艦船を購入するプランを立てた坂本龍馬は、亀山社中の近藤長次郎に交渉を命じ購入手配をさせます。
グラバーは、銃を新旧7,300挺と軍艦ユニオン号を用意して、長州から下関に運び、十月に伊藤・井上に引き渡しました。
ユニオン号は薩摩名「桜島丸」長州名「乙丑丸(いっちゅうまる)」

上顧客の薩摩藩
グラバー商会の最大の顧客は薩摩藩でした。
慶応元年(1865年)に薩摩藩が支出した艦船代金38万ドルのうち、20万ドルはグラバー宛でした。

世界文化社/歴史クローズアップ 坂本龍馬

グラバーと龍馬

グラバーが龍馬について語った文献はまだ何も見つかっていません。
「明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯」(杉山伸也著/岩波新書)では、ジャーディン・マセソン商会にあるグラバーの記載は、出生地も誤りがあるほど実像と大きな隔たりがあるぐらい虚実が入り乱れているとあります。

慶応元年(1865年)薩長の和解を中岡慎太郎とともに策していた龍馬は、5月に亀山社中を設立。グラバー商会から仕入れた小銃を薩摩編船・蝴蝶丸で下関に運んだのが同年8月。
長州藩士の留学の手伝いなどをしていたグラバーと、薩長の繋がりがある龍馬とは、この頃に取引などをしていたであろうという状況証拠だけ伝えられています。

動乱の時代を疾走した風雲児 坂本龍馬/世界文化社1996年 より抜粋

化け物屋敷グラバー亭

長崎南山寺のグラバー亭には、坂本龍馬、高杉晋作、近藤長次郎、岩崎弥太郎らが出入りする秘密の天井部屋が残されており、
「維新の黒幕で懐疑と隠密に満ちた志士活動の化け物屋敷」と噂されていたと言います。

1863年には長崎湾を見下ろす丘の上に建てたグラバー亭は、日本最古の木造洋風建築

グラバーの幕末維新

グラバーと長州ファイブ

江戸幕府討幕派を支援していたといわれるグラバーは、密貿易だけでなく、当時の国禁を犯して薩長両藩の武士たちの海外渡航に協力していました。
その足跡が、1863年に横浜から長州藩の5人の若者の英国渡航を手助けしたことだ。この5人は、初代首相の伊藤博文、初代外相の井上馨、日本工業の祖といわれる山尾庸三、造幣局長となった遠藤謹助、鉄道庁長官となった井上勝で、英国では“長州ファイブ”と呼ばれています。さらに、1865年には、後年、大阪経済界の重鎮として君臨することになった五代友厚が率いる薩摩藩士19人の訪英も手助けした。

「ソロバン・ドック」小菅修船場

幕末には幕府、各藩とも長崎の外国系商社から西洋の船舶を購入したが、大半が中国海域で使われた中古船舶だったため、故障が絶えなかった。このため、大規模な船舶修理場の建設が不可欠になっていました。
そこで薩摩藩の五代友厚との協力で作られたのが、蒸気機関を動力とする巻揚げ式の装置による「深式船架」を備えた小菅修船場です。
その形状から、当時の人びとは“ソロバン・ドック”と呼び、船を巻揚げる光景に歓声を上げたほど。1872年には明治天皇も長崎を訪れた折に、この日本最初の巻揚げ装置の作業を見学しています。

キリンビール

キリンビールの前身である「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(日本醸造会社)の設立にもグラバーは関わっています。日本でのビール生産は、明治維新直後に米国人が造った醸造所が始まりといわれていますが、グラバーはその醸造所が売りに出された1885年、食糧輸入商社「明治屋」社長で友人の磯野計(はかる、1857-1897年)と協力して日本醸造会社を発足。ビールが市場に出たのは3年後の1888年であった。
製品は「ラガービール」と呼ばれるが、そのラベルには伝説上の生物「麒麟(キリン)」が描かれました。