春風亭柳枝

江戸落語の世界(芸能・娯楽)

古今乃名人なり

初代春風亭柳枝は、13歳<文政9年(1826年)>(一説では16歳<文政12年(1829年)>)ころに江戸後期の人情噺の名人・初代麗々亭柳橋に入門。
麗々亭柳馬に次ぐ2番弟子となります。
落語系図(昭和56年編纂)には、「初代春風亭柳枝/古今乃名人なり初め燕花と云う」と残っています。生涯柳枝の名前だったと言い伝えられていますので、燕花は初名・前座名と思われます。

柳家の祖

江戸落語の2大派閥「柳家」「三遊亭」の起源は江戸末期にさかのぼります。
初代・三遊亭圓生の弟子・三遊亭圓朝は、幕末・明治に次々と創作落語を発表して大人気となり現在では落語の神様のように扱われています。
それに対する「柳家」の祖は、初代麗々亭柳橋、弟子の初代春風亭柳枝の二人から枝葉を広げ繁栄しました。
屋号に柳家をつけ現在に続く柳家の源流は、この柳橋・柳枝と言われています。

初代春風亭柳枝は、多くの優秀な弟子を育てました。育てた弟子の名前は代々名跡として現代も襲名されています。
<初代春風亭柳枝の主な弟子>
・2代目柳亭左楽<当代は6代目・落語協会>
・2代目春風亭柳枝、
・初代春風亭小さん(後の4代目朝寝坊むらく)
 <当代は6代目柳家小さん・落語協会/現在の柳家の止め名>
・初代談洲楼燕枝、
・3代目柳亭燕路<当代は7代目・落語協会>

初代柳枝の弟も噺家で、2代目玉屋柳勢<当代は6代目・落語協会> 

江戸落語の大ネタ「子は鎹(子別れ)」は、初代柳枝の創作と言われてます。離縁した両親のかすがいになる子供・亀吉は、初代柳枝の本名から取ったという説が残っています。(諸説あり)

九代目春風亭柳枝襲名

春風亭正朝門下・正太郎が令和三年3月21日より九代目春風亭柳枝を襲名。
61年ぶりに名跡復活となります。

<九代目柳枝の師匠筋>
林家彦六(8代目正蔵) _ 春風亭柳朝(5代目)
              |__ 一朝 _ 柳朝(6代目)
              |__ 小朝
              |__ 正朝 _ 柳枝(九代目)

落語協会の「春風亭」の亭号は、8代目春風亭柳枝没後封印されていました。
一方で、8代目林家正蔵は、いずれ正蔵の名を7代正蔵の海老名家へ返す約束をしていたため、弟子に林家と別の亭号を名乗らせようと考えました。
春風亭柳朝の名前が落語協会の預かりとなっていたので、一番弟子林家照蔵に柳朝を襲名させようと各所に願い立てることにしました。
日本芸術協会(現:落語芸術協会)には、4代目柳朝の弟子筋の春風亭の一門がいますので、当時会長の6代目春風亭柳橋に面会して柳朝襲名の了承を得るなど関係各所を調整して、5代目柳朝を襲名させました。
いまでは落語協会の春風亭は大きな派閥の一門となりました。
落語協会には8代柳枝の弟子で、師匠没後に8代正蔵門下に移った春風亭 栄枝から百栄に続く一門もあります。

落語芸術協会の春風亭は初代柳枝のルーツにつながる一門が続いています。
初代春風亭柳枝 _ 初代談洲楼燕枝 _ 三代目)春風亭柳枝 _ 四代目)春風亭柳枝 _ 六代目)春風亭柳枝 _ 春風亭柳昇 _ 春風亭昇太

文久三年ころ,後の談洲楼燕枝が入門(日時不明)