西郷隆盛と愛加那

幕末の女性

西郷隆盛と奥さん

初婚

最初の結婚は、嘉永5年(1852年)25歳の時に、薩摩藩士の娘 須賀と結婚。この頃隆盛は江戸に赴任して幕府の次期将軍と薩摩藩の関係構築に奔走。その間に須賀の実家の財政がひっ迫することになりやむなく離縁。結婚生活は2年ばかりで終わりました。

奄美大島での結婚

安政の大獄が振るわれる中、幕政の改革を謀った罪で西郷隆盛は進退に窮します。責任を感じて月照と共に錦江湾で入水自殺を測りますが、隆盛だけが一命を取り留めます。薩摩藩は幕府からの追及追認を避けるために死亡したことにして、奄美大島へ送って謹慎の身としました。

慣れない風土や言葉に戸惑うものの、そこで出会ったっのが奄美大島の名門一族である龍家の娘・加那でした。
安政6年(1859年)11月8日に結婚。(隆盛32歳)結婚時に隆盛が「愛」の名を与え、愛加那となります。
隆盛も島の子たちに読み書きを教えながら島の生活を楽しめるようになりました。
2年後の万延2年1月2日(1861年2月11日)に長男 菊次郎が産まれます。その喜びを盟友大久保利通に
「私は不埒にも一月二日に男子をもうけました どうぞお笑いください」
と手紙を送っています。

しかし、この年末に藩から帰藩命令が下り翌年に島を離れることとなりました。この時、愛加那には第二子の菊草(菊子)を身籠もっていました。

(愛加那/1837〜1902)

島妻

西郷隆盛は、奄美大島に流刑に書された罪人です。愛加那と夫婦でいられるのは島の中だけであって、薩摩藩はあくまで愛人のような取扱いでした。
薩摩藩・奄美大島の取り決めもあり、愛加那は一緒に薩摩に移住することは出来ませんでした。

薩摩での再婚

慶応元年(1865年)1月中旬、藩主父子に報告のため薩摩に帰った時に縁談が持ち上がり、1月28日に小松帯刀の媒酌で家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚しました。
隆盛と結婚した糸子は、奄美大島にいる愛加那へ仕送りをしたり、子供の菊次郎、菊子を薩摩に引き取るなどの面倒をみました。

龍馬が初めて薩摩藩の西郷邸にいったときに世話をしたのが糸子さんでした。西郷隆盛と龍馬

発見された愛加那への手紙

テレビ東京系「開運 なんでも探偵団」で、西郷隆盛が愛加那に宛てた書状が出品されました。
「鹿児島商工会議所会頭を14年間務めていた曽祖父が手に入れたものだが入手経緯は詳しく聞いていない。」
西郷隆盛が愛加那に送った手紙は、現存がほとんどない珍品でした。

新年一同目出度相(新年のあいさつ)

アメリカと申す所へ学問修行に行った菊次郎は至って元気だと申しております
年をとったせいか子どもたちの事を思い出します(菊草も)いずれ嫁に行かねばならぬために是非こちらへ来るよう伝えてください

当人も嫌い母も不合点の事ならハ(当人も母も嫌なら無理強いはしませんが)

明治6年正月十八日 西郷吉之助
 大嶋龍郷村 ありかな

開運 なんでも探偵団 2023年2月7日放送 より抜粋

明治政府参入時には人形町に住んでいました

幕末維新後に郷里の薩摩(鹿児島)で生活をしていましたが、明治四年(1873年)に新政府に請われて上京し、参議に就任。明治4年の岩倉使節団がアメリカに派遣されたことで「留守政府首班」となって国内の重要政策を実現していきました。
その頃に住んでいたのが今の中央区日本橋人形町一丁目。現在は日本橋小学校となっており、残念ながら屋敷の面影はありませんが、校門には屋敷跡について書かれた看板が建てられています。

看板には、西郷隆盛が1871年(明治4年)からの2年間、日本橋人形町に住んでいたことを記載。
屋敷は2633坪あり、畳4772枚分の広さの大豪邸だったようです。
15人ほどの学生と7人の召使いがいて、犬も数頭飼っていたそうです。
西郷さんの銅像と言えば、寄り添う犬。鹿児島でも20頭近く飼っていたほどの愛犬家でした。
実際に飼っていた犬は猟犬がほとんどで、銅像の犬は犬種が違うのでは?と言われています。