和宮

幕末の女性

時代に翻弄された 和宮

和宮は天皇家に生まれ、幼少時に有栖川宮熾仁親王との婚約が決まるなど、皇室の一員として成長していました。しかし、時代の波によって運命は変わます。
幕府との交渉で、14代将軍徳川家茂との降嫁が決定。有栖川宮熾仁親王との婚約を解消し、
和宮は、遠く離れた江戸に移住し、家茂の正室としての地位を受け入れます。
13代将軍家定の正室・篤姫からは冷たい態度を受けることもありました。
家茂との結婚生活も、わずか4年で家茂が大坂城で病に倒れてしまいます。
やがて、幕府と朝廷は政治的な覇権を争うことになり、和宮は幕府側に立ち徳川家の権威を守ろうと努力します。
一方で朝廷側には、かつての婚約者である有栖川宮熾仁親王が総大将として立ちました。

和宮親子内親王

弘化3年閏五月(1846年)仁孝天皇の第8皇女として誕生。兄の孝明天皇が「和宮」という幼名を名付けました。6歳の時に有栖川宮熾仁親王と婚約。
公武合体(朝廷と幕府が協力関係を築く)の動きが強まり、異母兄である孝明天皇と幕府との激しい折衝のなか、政争の道具として、14代将軍徳川家茂に輿入れすることが決定。
有栖川宮との婚約を解消します。

惜しまじな 君と民との ためならば
身は武蔵野の露と消ゆとも

(兄の孝明天皇の苦しい胸の内を察し、降嫁という形で江戸へ向かう決意をしました)

日本一の嫁入り行列

京から江戸へ降嫁する和宮の嫁入り行列は中山道始まって以来の大行列。長さは77キロメートルに及び、前後左右を守りながら警護していく武士たち、荷物を運んでいく人たちなど全部あわせると約2万人以上。
行列の先頭が通ってから終わるまで4日間かかったいわれています。
(島崎藤村『夜明け前』にも、第一部第六章で和宮一行が木曾街道を通行する前後の情況が描かれています。)

婚儀を江戸城で執り行う

文久二年(1862年)2月11日・江戸城で婚儀が執り行なわれました。
和宮親子内親王は征夷大将軍(徳川将軍)よりも高い身分である内親王という地位で降嫁。
そのため、嫁入りした和宮が主人(主人)、嫁を貰う家茂が従人という逆転した立場で婚儀が行われることとなりました。
これが後々まで、江戸城内において様々な形で尾を引くこととなります。

将軍家茂とは同年同月生まれで互いに17歳。
徳川家茂も、将軍の跡目争いで、大老・井伊直弼ら南紀派から押されて、わずか13歳で第14代将軍となっており、こちらも政争に巻き込まれている身です。
江戸城に入った和宮は、家定の正室・篤姫から辛く当たられたといいます。
一方で家茂は優しく誠実な人柄だったといわれ、彼女も応えていくようになります。
結婚生活が4年目になったときに、第2次長州征伐の途上、家茂が大坂城で病に倒れることとなります。享年21(満20歳没)。

家茂からの最後のプレゼント
第二次長州征伐に向かう家茂に「お土産は何がいい?」と聞かれた和宮は
「京都で西陣織の着物を買ってほしい」とお願いしました。
しかし家茂は出陣中の大坂で急死。
和宮の元には西陣織の着物だけが届き、和宮は抱きしめて泣き崩れたと伝えられてます。

和宮は、「空蝉の唐織り衣なにかせん綾も錦も君ありてこそ」の和歌を添え、その西陣織を増上寺に奉納、のちに追善供養の際、袈裟として仕立てます。
これは空蝉の袈裟として現在まで伝わっています。

公武合体が元での婚姻が終わったので、朝廷から帰郷するように進められましたが、和宮はこれを断り、落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮と名乗ります。

鳥羽伏見の戦い

時代は進み、徳川幕府が終焉を迎え薩長連合に実権が移るころ、慶応四年に鳥羽伏見で幕府と薩長連合が衝突。
朝廷が薩長連合を官軍と示したため、徳川家の存続を訴えるために朝廷側へ書状を送ります。

私一人安泰にて 亡夫(ぼうふ)への貞操も立ち難ければ、
私一身は当家の存亡に従ふ心得なり

(私一人が安泰であったとしても、亡き夫家茂への貞操が立たないので、徳川家の存亡に従いたいと決意しています)

朝廷主導で、薩摩藩・長州藩が攻めてくるところに、天皇家の和宮と、薩摩藩主の娘・篤姫が徳川家にいたという事実は、幕末の転換期・徳川家の存亡にとても大きな役割を果たしたといえます。

大奥が見た「わがまま和宮」

篤姫の側近・大岡ませ子

大奥で天璋院・篤姫様の側近・中ろうという地位にいた大岡(村山)ませ子の口述が残っています。大奥の反朝廷側の記録です。(三田村鳶魚全集 第3巻より)

和宮様は武家風にはおなりにならないので、万事が違ったことばかりでした。御台様とは申し上げずに、終始宮様と申しましたが、お袴の色も緋ではなく、カチン色というのでした。カチン色というのは、今の牡丹色の黒みのあるものです。そのお袴の下に穴が開いていて、そこから足が出ているので、宮様のお袴だけが別なので、いかにも珍しい事に拝見していました

「大奥で皆が普通に足袋を履いている仲、和宮様だけが素足で歩いていて驚いた」というませ子の記述も残っていいて、御所では普段足袋をはかないしきたりを和宮は守っていたので驚いた。

和宮のおひな様は表向きは江戸風にお飾りになりましたが、御内証はお上段の下へ毛氈を敷いて、じかに内裏様を並べてありました。これはお位があるので、見下すように飾るのだといいました。
(ひな飾りも江戸風だが、おひな様がお内裏様を見下すように飾っていた)

和宮の一挙手一投足が江戸・大奥の作法と違っているとあげつらっています。よほど気に食わなかったのでしょう。夫婦仲についても

初めての御上洛の時、宮様は御風気であったので、上様がお暇乞いにおいでになったのに、宮様はツンとしておいでになったといいます。その翌日のお立ちにも、お見送りもなさらなかったので(大奥では)腹を立てた者もありました。

ませ子が腹を立てている上洛前の日、別の書物ではいたって仲が良さそうに残っています

家茂は這子人形や遠めがね、磁石、硯石、水入れなどを持参して和子のもとを訪れて、ふたりは「御ゆるゆるご対面」していました(静寛院宮御側日記・文久3年2月12日)。

大奥VS朝廷の側女 主導権争い

天璋院篤姫と和宮の二人の不仲は、、大奥VS朝廷の側女 の主導権争いが原因だったのでは無いでしょうか?

武家社会のトップ・大奥に、朝廷からご令嬢の嫁入りは、今まで300年続いた幕府始まって以来の大事件です。

一方で「降嫁」してきた和宮の側女は、朝廷の娘・和宮の品と格を守ろうとします。

後年、勝海舟が
「天璋院と、和宮とは、初めは仲が悪くてね。ナニ、お附きのせいだよ。初め、和宮が入らした時に、お土産の包み紙に「天璋院へ」とあッたさぅナ。いくら上様でも、徳川に入らしては、姑だ。書ずての法は無いと云って、お附きが不平をいったさぅナ。それで、アッチですれば、コッチでもすると云ふやうに、競って、それはひどかったよ」

海舟余波 より

岩倉具視にも、和宮降嫁に先立ち大奥から
「御縁組みの儀、何卒ご沙汰止に相成り候様(和宮が嫁に来る前に、なんとかこの話が無かったことになりませんか)」と内願があったほどだという
岩倉もこの内願がはたして真実か否か・・・

孝明天皇記 より

和宮の本当の顔は?

表の和宮
「お姫様が時代に翻弄されて政略結婚・嫁姑のいじめなどを乗り越えます。最後には許嫁だった男性との戦いに対しても、結婚した男への操を立てました」

裏の和宮
「上級階級から嫁入りしたお姫様は、しきたりもルールも無用なわがままで、旦那様に対してもつっけんどんな悪嫁でした」