岩崎弥太郎

安政四年十月十日

土佐安芸郡に井ノ口村という村がある。
「室戸へ行くなら、途中、岩崎弥次郎、弥太郎の様子を見舞ってやれ」と権平が言った。
地下浪人の岩崎家とは薄い縁に繋がっているらしい。地下浪人とは土佐にある武士の一種で郷士がその株を他人に売った後、村に居ついた浪人武士のことである。弥次郎老人は極貧でも気位だけは高かった。村との揉め事で牢に入っている。

公事宿の亭主を通じて牢に袖の下を入れておくと扱いがひどく違うのである。
金は万能薬だというが、亭主は頭を畳にこすりつけた。

「弥太郎どんか。井ノ口村に評判の悪人がいるというのでこんな田舎の牢まで見物に来たのさ」
「何をぬかすかい。うらァ牢にはいっちょるけんど、志は、万里をかけちょる」
「面白い法螺じゃ」
「牢中で太助どんに算術と商法の道をなろうとる。世の中は、一にも二にも金じゃ。世の中は金で動いてる。わしは将来日本中の金銀をかき集めてみするぞ」

「面白い」竜馬は手を叩いて喜んだ。

memo 岩崎弥太郎

土佐の貧しい家に生まれ、後に三菱財閥を築いた岩崎弥太郎と坂本龍馬は、浅からぬ関係性にある。龍馬の一度目の江戸修行と同時期に江戸遊学しており、その後土佐に帰郷して吉田東洋に弟子入り。同門の後藤象二郎とは親しく交わった。
後藤象二郎は土佐藩の富国強兵には貿易が重要だと、大坂・長崎に土佐商会を設立。商法に長けた岩崎弥太郎が責任者となり土佐の特産品(樟脳や鰹節、和紙など)を輸出し、武器などを購入していく。
そのつながりで、土佐藩の後ろ盾で活動する海援隊の経理面も岩崎弥太郎が担当することとなる。

明治維新後に土佐商会が閉鎖されるとその権利を受け継いで、九十九商会を設立。海運業をスタートし、明治政府の保護下の元、起業からたった5年で国内の海運業を独占。ここから、各方面に広がる三菱財閥がスタートした。

下級とはいえ武士から商人に転換したのは、時代を読む力があった証でしょう。
ダイナミックに時代が動いている時に、旧来の商人では一気に事業を広げるには躊躇がある。また、海外貿易はもちろん今までの「藩」の括りを取っ払い事業をするには、政治の後ろ盾を受けやすい武士出身が役に立つ。また国の方針を具現化する商人であったからこそ、海外と対等の国力をあれほどまでスピーディーに実現できた。

「商法経営の方策は、現在のわが国で、わが社の右に出る者は、ないようにすべく苦心をしている」と弟に送った手紙に記している。
『わが社』という概念をいち早く持った人物の一人で、江戸時代は、「我が藩主」「我がお家」が守りべきものであったので、会社というカテゴリーをそれらと同じく、守り栄えさせるものだという考えを植えつけた、日本的サラリーマンの元祖かもしれません。