武市半平太 投獄

土佐藩

武市瑞山(半平太)獄中自画像アレンジ

「武市半平太」
とあらためて声をかけ声をかけ、藩命を読み上げた。
「右の者、京都に対し奉りそのままにしておきたがし。その余、ご不審のかどこれあり。 追って、あがりや(士分の牢)入りおおせつけられ候事」
武市は平伏して命を奉じ、顔を上げて、
「まだ朝飯を喫しておりませぬ。しばし間をあたえられよ」
と富子に支度を命じた。
富子は、すぐ膳をはこんできて、めしをついだ。これが、半平太への最後の給仕になることを、富子は知っている。
悲嘆を、懸命に堪えていた。
「竜馬はどうしちょるかのう」半平太は、ぼそりといった。

竜馬がゆく4P232

武市瑞山投獄

文久3年(1863年)尊攘派の情勢が急激に悪化する。
土佐・山内容堂は公武合体派で、半平太らが目指す藩政改革とそう反していました。土佐勤王党は山内容堂派の青蓮院宮を抱き込んで山内容堂を説得しようとしました。
1月25日に入京した山内容堂は、裏工作を進める平井・間崎らの動きを知り「僭越の沙汰である」と激怒して両名を罵倒して罷免した上で土佐へ送還させます。(青蓮院宮令旨事件/しょうれんいんのみやりょうじじけん)
この事件に激怒した容堂は土佐に戻って、吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党を調べ上げることにします。
文久3年9月21日、「京師の沙汰により」の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄されます。

獄中の瑞山

投獄された半平太に対して、獄吏(監獄の役員)は勤王党の考えに傾倒して色々と便宜を図ってもらえたとされ、獄吏らを通じて家族や在獄中の同志と秘密文書をのやり取りも可能でした。
これにより、長期にわたる獄中闘争の中で同志の団結を維持し続けると共に、軽挙妄動を戒めることもしていました。
また、取調べの際には、上士の身分である半平太は結審に至るまで拷問される事はなかったものの、軽格の同志たちは厳しく拷問されることとなりました。

一年半後の慶応元年(1865年)閏5月11日。投獄されていた岡田以蔵以下4人が斬首の刑に処されます。岡田以蔵の首は3日間獄門(さらしくび)に。
同日に武市半平太は上士の身分のため武士の本懐・切腹を言い渡されます。

富子のほたる

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夫婦の絆が強かった半平太と富子。
半平太が牢屋に入れられてから3年間、毎日3食分の弁当をつくって半平太に届けた。また、半平太をなぐさめるため、花や蛍までとどけたそうだ。
(幕末維新人物大辞典 より)