維新のさきがけ 天誅組とは

朝廷・宮家

大事件が待っていた。
ひとつは国もとでは武市半平太が投獄されたこと、もうひとつは、大和平野で挙兵した吉村寅太郎らが諸藩の兵に包囲され、奮戦のすえ、そのほとんどが闘死したことである。
竜馬はこの報を神戸村の海軍塾できくや、
「やったかぁ」
と、刀をかかえて庭へとびだし、庭前の松の若樹を一刀両断にし、そのあと刀を垂れたまま、呆然とした。
弾圧時代が来た。

竜馬がゆく4 惨風 P220

天誅組の乱

公家の武闘派・中山忠光

京都の公家・中山忠光は、弘化2年(1845年)生まれで、姉の慶子が孝明天皇に仕えて皇子祐宮(後の明治天皇)の母となります。忠光は明治天皇の伯父にあたり、侍従になって祐宮の学問や遊び相手を務めました。
天皇家の近くで働く忠光は、徳川幕府と宮廷との関係に心を痛め、王政復古の気概を持つようになります。

久坂玄瑞ら長州藩と関わるようになった中山忠光は、文久3年3月19日、密かに京都を脱して長州藩に身を投じることにしました。

文久3年(1863)5月10日に勃発した下関事件。
攘夷の戦いとして有名な下関事件で、中山忠光は中心人物・光明寺党の党首として長州藩の軍船“庚申丸”に同乗し、攘夷戦に参戦し外国船を蹴散らせます。
しかしし6月1日、アメリカ軍艦「ワイオミング号」が関門海峡に現れ、長州藩の艦船3隻をたちまち撃沈。6月5日にはフランス軍艦が台場を攻撃し近くの村を焼き払う事態に(馬関攘夷戦[ばかんじょういせん])
この時に、海外諸国の軍事力に裏打ちされた強さを実体験した忠光は、“攘夷は無謀・不可”と考えを改める事になりました。

外国と戦う前に、外国に甘い徳川幕府を終わらせて
天皇が司る政府を作って、諸外国と対峙しよう

孝明天皇が、大和行幸の詔

反天皇派には天誅を

文久3年(1863)当時の江戸幕府は外国からの勢力が強まり、鎖国から開国に政策変換の模索を始めました。300年続いた江戸幕府の権力は弱体化し、外国や幕府に対して批判的な勢力もありました。
ついに公家や各藩の武士達は、尊王攘夷派(外国勢力を排除し幕府を倒して天皇中心の政治を行おうとする立場)と、公武合体派(朝廷と幕府が協力して政治を行おうとする立場)の対立が表面化してきます。

孝明天皇のもとには「徳川幕府を廃して天皇家主体の政府を創ろう」という親書が次々と朝廷へ届きます。
文久3年6月に長州藩毛利敬親・定広父子から、届いた攘夷親征の親書には、
「勅(みことのり/天皇の命令)に従わない幕史や諸侯には、勤王の諸藩と申し合わせて天誅を加えること」と進言しています

反天皇派は問答無用で天誅を喰らわせて排除しよ!

孝明天皇 重い腰を上げる

文久3年8月13日、孝明天皇は、攘夷親征の詔勅を発する(外国圧力に対抗しろという方針)ため、神武天皇陵の参拝(大和行幸)を決めます。

京の御所から滅多なことでは出かけない天皇が、大和の国の神武天皇陵やに攘夷を宣言することは、徳川幕府を否定して、新しい政府を樹立しようという宣言となります!

天誅組の蜂起

夢破れた忠光

長州藩での攘夷活動に夢破れた中山忠光は、京の実家に戻っていました。父親の中山忠能は、忠光がかろうじて言うことを聞く真木和泉と久坂玄瑞を呼び、攘夷運動に飛び出そうとする忠光をなだめるように命じていました。
真木和泉は7月に何度も忠光を訪ね「長州での出来事は末事で、今はこれからの大事に準備して静かにしてましょう」(真木和泉守全集)と納めていました。

8月に入ると吉村虎太郎が忠光を訪ねてくるようになり、
「松本容堂・藤本鉄石ら有志を糾合し、行幸の直前に大和の国で討幕活動をしよう。大和の国で農兵を募って親兵を組織して幕府統括地を襲撃する。その頭を中山忠光になっていただきたい」
と口説いていました。

天皇の大和行幸に合わせて、一旗揚げようぜ!

天皇に従った尊王攘夷派が集結!天誅組が決起。

文久3年8月13日に「天皇行幸の勅」が発せられました。

翌14日、自ら「天皇行幸の御先鋒」と称する尊王攘夷派の志士が、京都東山の方広寺に集まり、公卿の中山忠光を主将に約40名で結成。いわゆる天誅組の発足です。

幕府天領の大和国

吉村寅太郎ら攘夷親征祈願を願う攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるため同志を集め、大和国(奈良県)に向かいます。
伏見から船に乗り淀川を下り八月十五日に堺に到着。西高野街道から大和への道中で「われわれは天皇行幸の先鋒軍だ!。一緒に決起するときだ!」と村々に結集を呼びかけ人数を増やしながら大和の国に進駐します。

幕府天領の大和国幕府天領に到着した天誅組は、大和国五条代官所を襲撃して、代官鈴木正信(源内)の首を刎ね、代官所に火を放ちます。

天誅組の挙兵は桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地にしたことを宣言。五条御政府と名付けました。

八月十八日の変

しかし、翌日に京で八月十八日の変が勃発。
長州藩や攘夷派公卿や浪士達が失脚して攘夷親征を目的とした大和行幸は中止となります。

攘夷親征を阻止した薩摩藩・会津藩は、8月26日、天皇に勅使を進言します。

「八月十八日以降の勅使は真実であり、十八日以前に出した勅使は真の叡虜ではない」

この宣言は、孝明天皇が13日に出した大和行幸の詔だけでなく、それ以前の尊皇攘夷に関する天皇の発言全てを否定する事になりました。
長州藩の計画はご破算となり、長州藩こそが反体制の元凶となりました。

天誅組はトチ狂った「暴徒」

八月十八日の変のおかげで、天誅組の大義・後ろ盾は全てなくなることとなりました。
天誅組は、挙兵の大義名分を失ってトチ狂った「暴徒」のような扱いになり追討を受ける身に。

奈良・十津川郷に移った天誅組は、十津川郷士を巻き込み、一時千人近い兵士を集めていました。しかし、寄せ集められた兵士の士気は低く、幕府が諸藩に命じて大軍を動員をして天誅組討伐を開始すると、一気に形勢を崩して、9月15日、主力となっていた十津川勢が離反を宣言。郷士代表の野崎は責を負い自害します。

9月19日中山忠光は天誅組の解散宣言。

9月24日の鷲家口での戦い幕府軍との戦いで組織は離散。この戦いが天誅組の組織としての最後の戦闘とされています。

参考資料/天誅組の変ー幕末志士の挙兵から生野の変まで 中公新書 舟久保藍 著

吉村虎太郎

9月27日。天誅組総裁吉村寅太郎、津藩兵により射殺される。
享年27歳
吉村は、8月26日の戦いで重傷を負い天誅組一行から遅れ駕籠に乗って追従しているところを撃たれた。これによって天誅組は壊滅しました。