薩英戦争始まる

「英国の東洋艦隊が、日本の一侯国と戦って敗退したという報道はロンドン・タイムズに載った。これが英国政府にえらく衝撃をあたえたらしい。」
と、竜馬は勝海舟からきいたことがある。英国会議では責任者のクーパー提督を非難する議員もあり、この戦闘が契機になって、英国外交の方針は「むしろ薩摩と握手せよ」という方針にかわった。

竜馬がゆく 6巻 P48

前年の文久2年8月21日に生麦村で起こった通称「生麦事件」
幕府に「夷狄・外国人)を閉め出せ」と意見を申し立て、意気揚々と帰路につく薩摩藩・島津久光の行列の前を、観光気分でピクニックに来たイギリス人がたまたま出会って横切った事で無礼者と切り捨てた事件。
この事件に怒ったイギリスは薩摩藩に犯人の引渡しと賠償金を要求しましたが、当然薩摩藩は全て拒否。
イギリスは、軍艦7隻を鹿児島湾に侵入させて圧力をかけることにします。
それでも薩摩藩は無視をしたため、ついに紛争が勃発。
 飛距離のあるイギリス軍の大砲は鹿児島市街地まで届き炎に包まれました。

しかし戦さの備えをしていた薩摩藩は、海岸に並べた大砲で応戦。イギリス軍艦3隻を撃破します。実力行使を諦めたイギリス軍はここで退去しました。

この戦いでお互いの実力を認め合ったイギリス・薩摩は、その後親密な協力関係を持つようになります。
まるで昭和の青春ドラマのような関係ですね。

イギリスヤリスギ?

生麦事件の賠償問題で薩摩藩に攻め入ったイギリス軍。実はその前に幕府にも賠償を持ちかけ、賠償金として10万ポンド(約30億円)を受け取っています。
イギリス議会でも「賠償金をもらっておいて市街地を攻撃するのはやりすぎだ」と非難する声があがったとも。(幕末維新大辞典)

薩英戦争始まる

文久三年六月二十七日、鹿児島港にイギリス軍艦7隻が姿を表す。
前年の生麦事件の犯人引き渡しや賠償金の交渉をするためだが、薩摩藩はイギリスの強行要求を拒否。
七月二日早朝イギリス軍艦が鹿児島湾に侵入して、薩摩藩船3隻を拿捕。
薩摩藩は砲台から攻撃をして交戦になり、双方に甚大な被害がでる。
夕刻にイギリス軍後退。
七月四日、薩摩藩は降伏。
イギリス艦隊は、鹿児島湾から出航して九日に横浜港に帰着。(幕末維新年表)

薩英戦争

(島津)久光には久光なりの凄みがある。
なぜなら薩英戦争の直後、すぐ英国代理公使ジョン・ニールと手をにぎり、使臣をして、
『おはんら英国人も薩摩武士の強さをお知りなはったじゃろ。わが藩も英国文明のこわさを知りもした。さればわが薩摩を英国なみに仕立てるために、留学生を受け入れてくださらんか。
といわせた。英国側は快諾し、そこで薩摩は十五人の秀才をすぐり、幕府には秘密でこの正月十一日、鹿児島を出発させている。このことは早耳の竜馬はくわしく知っている。

竜馬がゆく 6巻 P52