乾退助

少年のころ、城下では喧嘩退助といわれた若者だ。
高知中島町に屋敷を持つ三百石の上士の子で、早くから「上士の子であれほど乱暴なやつはいない」といわれた。例の暗殺された吉田東洋が参政になったとき若くして免奉行になり、さらに東洋の死後は、江戸に出て容堂の御側用人になった。

退助は上士の出だから、郷士出身の竜馬とはのちのちまで薄縁であったが、ひどく竜馬を尊敬し、晩年、高知における坂本家の縁者が何か頼みごとがあって上京したとき、退助は入院中で、面会謝絶の札をかけていた。
が、竜馬の縁族ときくや、すぐ病衣のえりをととのえ請じ入れ、寝台の上に正座し、
「板垣退助がこんにちあるは、坂本先生のおかげでございます」
といったという。

竜馬がゆく3 P275

板垣退助

土佐藩の武士の長男として生まれました。子どもの頃は、あまり勉強が好きではなくけんかばかりするわんぱく者でした。幼なじみの後藤象二郎とは「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲だが、けんかもしょっちゅうして、その時はヘビを捕まえてきて振り回しヘビ嫌いの象二郎を怖がらせたことも。
100円紙幣の肖像画に選ばれた写真の立派なヒゲのイメージがありますが、ヒゲを伸ばし始めたのは、自由党を結成して自由民権運動をすすめた45歳(明治14年・1881年)頃からといわれています。

明治15年(1882年)4月6日岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷(岐阜遭難事件)。竹内綱(吉田茂首相の父)に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった事件となりました。その時の様子が絵として残っています。

明治15年11月、後藤象二郎らと洋行の時、板垣がフランスで購入したルイ・ヴィトンの鞄は、現存する日本人が購入したルイ・ヴィトンの鞄の現存最古のものとして保管されています。(それ以前にヴィトンを購入した日本人はいますが、現存している最古の鞄)

文久年間和蘭留学生 出航(文久二年九月十一日)

西洋の学術・技術の導入は急務と考えていた幕府が海外留学を計画。はじめにアメリカに打診したが、当時は南北戦争の真っ最中で断られる。そこでオランダに軍艦の発注と留学生派遣を交渉、決定した。
優秀な幕臣と職人をえりすぐったメンバーは、3月に咸臨丸に乗船して江戸を出て長崎へ。9月11日オランダ商船に乗り込み長崎を出航。10月6日にスマトラ島の東ガスパル海峡での遭難を経てオランダに向かう。
オランダ留学生達は、留学先で海軍関連の技術や社会科学、医学等を学んだ。

1865年オランダで撮影。後列左から、伊東玄伯、林研海、榎本武揚、(布施鉉吉郎)、津田真道。前列左から、沢太郎左衛門、(肥田浜五郎)、赤松則良、西周。内田正雄と田口俊平は欠席。( )は留学生ではない。