清河八郎と会う

竜馬がゆく

日時仮

「京都義挙の一件、あれは俺の作者さ」
清河はいった。ホラではなかった。清河八郎は、ホラをふいて自分を膨らまさねばならぬほど、貧弱な男ではない。
「あんたがねえ」
世間とは妙なものだ、と龍馬はわれとわが身がおかしかった。清河がどこかで吹き上げた笛の音が、まわりまわって土佐の田舎に聞こえてきたために、竜馬も踊らされて脱藩するはめになったではないか。
(こいつが、おれの一生を変えたわけだな)

「しかし清河さん、あんたは肝心の寺田屋の時にはいなかったようだ」

確かに寺田屋の惨禍(さんか)をまねいた京都義挙の一幕は、清河が役者を集め、脚本を書き、演出までしたのだが、その寸前に座員一同に、清河は放り出された。そのいきさつは、龍馬も耳にしている。
(竜馬がゆく3 P95)

清河八郎

清河八郎は、北辰一刀流の免許皆伝を得て、江戸の学問所でしっかりと学び、学問と剣術の両方をひとりで教える塾を開いていたようなマルチな才能の持ち主でした。

当時、江戸市中に増えた浪人や素浪人に手こずっていた幕府に警護役に雇い入れることを進言し、近々上洛する予定の将軍・徳川家茂の警護を目的として、江戸で浪士組200余名を集めました。
浪士組と名付けた一団を、上洛に先駆け京都に連れていきます。

しかし、いざ浪士組が京都に到着すると、清河は真の目的を明らかにします。
彼が兵を募った目的は、将軍警護のためなどではなく、尊皇攘夷の魁となる、朝廷のための部隊を作ることだったのです。
騙されて集められたにもかかわらず、浪士組に参加した大部分は、それでも清河に従いました。
浪士たちにとって一番重要なのは、雇い主を得ること、そして、混沌とする幕末の世に、なにかしら自分の力を役立てる場を見つける、ということでした。
目的が将軍警護だろうと尊皇攘夷だろうと、ぶっちゃけどっちでも良い、という人がほとんどだったのです。

しかし、そんな清河の口車に乗ることなく、当初の目的である将軍警護を遂行すると決め、京都に残留する勢力がありました。
それがいわゆる京都残留組、近藤勇たち試衛館一派、芹沢たち水戸一派、そして、殿内一派などの数名の人達だったのです。
これが後の新撰組となります。