会津小鉄2

浪人浮浪雲
吉田山

藤兵衛が宿に戻ってきたのは翌朝である。
「藤兵衛、お田鶴さまの元に密書を届けたか」
「このとおり、お返事がございます」

都の花に嘯けば
  月こそかかれ 吉田山
という、京都旧第三高等学校の寮歌がある
吉田山がお田鶴さまが竜馬へ指定した密会の場所であった。

memo 会津小鉄2

京都に自分の賭場を持ってからも、相変わらずの暴れん坊。
最終的には全身80箇所に刀傷が残り、左手に残っているのは親指と人差し指のみで、右手の薬指・小指は傷で曲がったまま動かなかったという。
これらの傷を考えると、当時の博徒の喧嘩レベルは、刃物を刺し違える殺し合いレベルであった事がよくわかる。名刀を腰にしても人を切ったことがない武士たちとは、現場力の違いがあった。

小鉄は、ただ単に喧嘩っ早いあばれ者だけではなかった。
それは人足をあつめる請負としても活躍していたのである。交渉術と人望が必要で、集めた者たちをまとめ上げる人望や、組織として機能させる指揮力も十分に持ち合わせていた。

幕末の動乱期に入ると、会津藩松平容保が京都守護職に就任。
1863年(文久2年)12月 – 会津藩兵が入京。会津藩中間部屋頭の片腕として迎える。
この頃より会津小鉄と呼ばれ伝説の活躍を見せることになる。