藤沢の宿 首つなぎの親分

浪人浮浪雲

藤沢の宿場に入った時には、旅籠は軒行燈にすっかり灯が入っている。

京なまりの武士は、竜馬と藤兵衛にしつこくすすめて、とうとう同宿させた。
「土佐の高知の坂本家と申せば、ご本家の才谷屋と並んで物持ちと聞いておりますが、その御曹司がなぜ路銀におこまりどす」
「なぜ拙者の家をご存知です」
京侍は明り障子に目を走らせた。竜馬は藤兵衛を廊下で見張ってろと命じた。
「名を明かします。それがしは内大臣三条実万卿の家臣で水原播磨介と申す」
三条家は土佐の殿様山内家とは姻戚である。
「そやさかい、お手前が土佐藩士と知って安心はしておりました。坂本殿のことはさる女性からしばしば聞いておりました」
「・・・お田鶴様」

memo 首つなぎの親分 安東文吉

駿河国府中(現:静岡県静岡市駿河区)に一家を構えた二足草鞋の大親分。別名「暗闇の代官」、「日本一首継(にほんいち・くびつなぎ)親分」。

大柄で相撲を好んだため10代の文吉は弟の辰五郎と江戸の清見潟部屋に入門し芳ノ森の四股名で土俵に上る。後に故郷に戻るがバクチ打ちの群れに入り、己からすすんで人別帖より削られ無宿となる。

場所的によい賭場を持っていた事もあり多くの猛者を統率していく。大勢力となっていく文吉を見込んで1838年、駿河代官所は文吉と弟の辰五郎に十手取縄を預けようとする。


この背景には封建社会の建前だけでは解決できない遠州博徒の騒乱を文吉の手で収めようとする意図がある。揉め事を押し付けられた文吉は固辞したが結局は引き受ける。しかしこの件は小泉勝三郎という奇骨の浪人との出会いを生み文吉の視野を広げていく(小泉は一家の大恩人であり文吉の墓の「安文吉」の文字も小泉の筆による。文吉没後に帰郷)。

二足草鞋となってからは自らバクチはしなかったとされる。十手と同様に公用手形の交付権も与えられていたために無宿の旅人で事情を抱えている者はこれを庇っている。「首継親分」の名称はこれに由来する。また清水次郎長と黒駒勝蔵の喧嘩には和解させるように心を砕く。明治の始めになって没す。

生涯の趣味は江戸の相撲観戦であり、その豪勢な金の使いっぷりは10万石の大名に溜息をつかせたという。