動乱は黒船来航から始まった 1853~
幕末維新を語る際には、1853年のペリー来航が重要な出発点とされます。圧倒的な戦力を背景に江戸湾に現れ、幕府に開国の要求を伝えました。
ペリー来航の影響は大きく、日本国内では開国派と尊王派などの異なる立場が浮上し、幕末の動乱の序章とも言える出来事となりました。
徳川幕府
海外貿易復興
開国を迫られた幕府は、翌年に日米和親条約を結んで下田と函館を開港、長年の鎖国体制が終焉。
土佐藩
長州藩
吉田松陰がペリーの黒船でアメリカ密航を計画。
薩摩藩
朝廷
さらに自由貿易を要求する米国に「勅許(天皇の許可、許し)を頂いてくる」と幕府が、条約締結のお伺いをします。
開国で生活が厳しくなり、外国への敵対心 1858~
1858年、大老・井伊直弼が独断で日米修好通商条約に調印。外国との不平等貿易で物価高(インフレ)が起こり、嘉永七年(1854年)の地震・寅の大変などの災害もあり、生活に困った武士や庶民の不満が高まる。
徳川幕府
開国派
大老(最高責任者)に就任した井伊直弼が独断で日米修好通商条約に調印(1858年)
土佐藩
長州藩
松下村塾・吉田松陰の元で、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一らが学ぶ。
薩摩藩
朝廷
公武合体派
外国嫌いの孝明天皇は勅許を拒否。幕閣、外様大名、譜代大名らの協調による「公武御合体」を要求
安政の大獄と桜田門外の変 1860
井伊大老は、尊攘派や反体制勢力の公卿・大名・志士ら百余名を弾圧・処刑しました[安政の大獄/
安政5年(1858年)から安政6年(1859年)]
恨みを買った井伊は尊攘派に斬殺され[桜田門外の変/安政7年3月3日(1860年)]、幕府の権威は大きく傷つきました。
尊攘派が息を吹き返す中、特に勢力を拡大したのが長州藩でした。
徳川幕府
井伊直弼が尊攘派や反体制勢力を弾圧[安政の大獄]するも、[桜田門外の変]で暗殺される。
公武合体
土佐藩
上士・公武合体
郷士・尊王攘夷
土佐勤王党結党(1861年)
長州藩
尊王攘夷
急進派の公家と手を結び、将軍家茂に無理やり攘夷決行を迫る。
薩摩藩
公武合体
朝廷
公武合体
尊王攘夷
尊王攘夷派の7人の公家が、長州藩と攘夷を画策。
長州は都落ちし、京では新撰組が大暴れ
長州の余りの過激な行動が国を誤らせることを恐れた孝明天皇の意を受け、会津藩と薩摩藩が中心となってクーデターを実行しました[八月十八日の政変]。
徳川幕府
公武合体
文久二年(1862年)仁孝天皇の第8皇女「和宮」との婚儀を江戸城で執り行う。
土佐藩
公武合体
八月十八日の政変以降、新撰組の手で尊皇攘夷は弾圧を受け土佐勤王党員が次々と捕獲。
長州藩
尊王攘夷
薩摩藩・会津藩に追いやられ、長州に敗走。京での活動が封じられる。
薩摩藩
公武合体
孝明天皇より長州藩討伐の願いを受け、会津藩と共に長州追い出しクーデター決行
朝廷
公武合体
三条実美ら7人の急進派公家と長州藩は共に京から追放[七卿落ち]
犬猿の仲の薩長を坂本龍馬が仲介し、倒幕へ
「八月十八日の政変」と「禁門の変」で2度敵対した薩摩藩と長州藩は、犬猿の仲と言える仇敵同士でしたが、徳川幕府の横暴を食い止めるため、二大雄藩の薩長が水面下で手を結んだことで、時代は一気に倒幕へと傾くことになります。
大政奉還を受け入れる将軍・慶喜
薩長がイギリスの支援を受けて倒幕準備を進める一方、新将軍の慶喜はフランスからの援助で軍制改革を進めながらも、内乱の回避を模索していました。
んな慶喜に土佐藩前藩主の山内容堂が「自ら政権を返上してはいかが?」と提案。慶喜はその提案を受け入れ、京都の二条城で大政奉還を諸藩に宣言しました。