新徴組 中澤琴

あの浪士団は朝廷のご用のためのものでござりまする。
と、ぬけぬけといっている。奇術師とすれば清河ほどの奇術師はいない。
してやられた。とみな気づいた。奇術のたねがあとからあとから割れてゆく。
が、清河は、度胸がいい。
タネが割れてもせせら笑っている。割れたときにはもう次の奇術を考えているのだ。
浪士団(その一部はのちの新撰組。大部分はのちの新徴組)を産み落としただけで江戸に舞いもどったのは、文久三年の晩春である。

竜馬がゆく4 P96

新徴組の誕生

清河八郎が京にかき集めた浪士隊。その目的が将軍の警護ではなく、尊王攘夷で倒幕だと真逆の発表を浪士一同にした途端、賛否が分かれ頓挫します。
同意せずにそのまま京に残ったものが、壬生浪士組を経て新選組を旗揚げ。
多数の浪士隊は、清河八郎に付いて江戸に向かいました。
江戸に戻った直後に、中心人物の清河八郎が暗殺され多くの浪士隊が目的を失うことになりました。
大量の浪士がウロウロしては治安がますます悪くなる。そこで幕府がのりだし、浪士組を新徴組として再組織、10月に幕府より江戸市中警護、海防警備の命を授けます。翌年の元治元年(1864年)にはまとめて正式に庄内藩酒井家の御預かりとなります。

おまわりさんの語源

揃いの朱の陣笠を被り、夜には庄内藩酒井家の紋所であるかたばみの提灯を下げて市中を練り歩いて警備を始めると、江戸の治安が次第に回復ました。江戸市民からは唄にもうたわれます

"酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る"

おまわりさんとは、古来からある市中巡回の官職である御見廻り(おみまわり)から由来する愛称です。この呼称は明治になって近代警察の巡査に受け継がれ現代の警察官にも続いている愛称となりました。

中澤琴

京の新撰組・沖田総士が町娘のアイドルになったように、
江戸の新徴組にも町娘のアイドル「中沢琴」がいました。
しかし中沢琴は、男装の志士だったのです。

現在の群馬県利根郡に生まれた中沢琴は、父が剣術道場を営んでいたことから、幼い頃より剣術を学び、中でも薙刀においては師匠である父をも凌ぐ腕前であったと言われています。

清河八郎が、江戸で「浪士隊」を募集した折に、中澤琴の兄である中沢貞祇(中沢良之助)も浪士組に参加しました。
このとき、中澤琴も浪士組に加わって京に行ったとされていますが、浪士組の名簿にはその名の記述はありません。そのため、非公式で同行を許されたか、男装して追従または追って向かったとも考えられています。

その後、清河らとともに江戸に戻り、浪士隊が新徴組を組閣するときに、男装をした琴は兄と共に新徴組に参加しました。
慶応4年(1868年)12月25日、品川で江戸薩摩藩邸の焼討事件を引き起こしました。この新徴組の焼打ちがキッカケとなり戊辰戦争へと進みますが、中澤琴も焼き討ちに参加していたようで、左足のかかとを斬られたと文献に残っています。
その後も、鳥羽・伏見の戦いなどにも参加しました。

身長は当時の女性としては非常に高い170cmほどもあり、面長で目鼻立ちの整った容姿の中沢琴が男装すると、女性から言い寄られることも多く、困ったという逸話が残っています。