沢村惣之丞と脱藩

土佐藩

武市一派の東洋暗殺にさきだつ十四日前の文久二年三月二四日、闇にまぎれて脱藩してしまっていた。
兄の権平は、気が小さいくせに、生来ののんき者だ。
五日ばかり経ってから、
「のう、お栄。ちかごろ屋敷に竜馬めの姿がみえんが、どこへ泊まりあるいちょるかのう」
といった。
お栄姉は、とっくに竜馬の不在には気づいている。
(脱藩。−)と思ったが、
「さあ。下の才谷屋にでも、遊びにいっちょるのではありますかいな」
「そうかの。あの浮かれ者めが」
(竜馬がゆく2 P431)

沢村惣之丞

沢村 惣之丞(さわむら そうのじょう、天保14年(1843年) – 慶応4年1月25日(1868年2月18日))は、幕末の土佐の人物。別名に沢村延世・前河内愛之助・関雄之助などがある。(wikipediaより)

間崎哲馬に師事し、学問を学び、その後土佐勤王党に加入。1862年、のちに天誅組を結成する吉村虎太郎らと共に脱藩します。
しばらくして、武市に活動報告をするために一時帰国。
その後坂本龍馬らと再度脱藩することになります。

その後坂本龍馬と共に勝海舟の弟子となり、神戸海軍塾に入門します。
沢村は龍馬の甥にあたる高松太郎と一緒に活動することが多かったようです。