(洋学も学ばにゃ、ならん)
(竜馬がゆく2 p176)
と、竜馬はだいそれた野望をおこしたのである。
「洋学。-」
武市半平太も驚いた。武市は、漢学、国学に造詣がふかいが、洋夷の学問まではやっていない。
竜馬は、世界のことが知りたい。万里の波濤を蹴ってこの極東の列島帝国まで黒船を派遣してくる「西洋」というものがふしぎでならなかった。
それは、子供のように無邪気な好奇心であった。
「されば、たれに就くのじゃ。この城下には蘭学者などは居やせぬぞ」
「一人いる。蓮池町の河田小竜老人じゃ」
「小竜。あれはお前、絵師ではないか。絵師ずれになにがわかる」
memo 河田小龍
幼い頃から画才があり、13歳の頃から絵画を島本蘭渓に学び儒学や陽明学を学んでいた。弘化3年(1846年)に吉田東洋に従って京に遊学、京狩野家九代目の狩野永岳に師事するなど、絵と勉学に励みました。
嘉永5年(1852年)、米国から漁師・中浜万次郎(ジョン万次郎)が帰国。
当時29歳の小龍は、土佐藩での事情聴取役に選ばれて、26歳の万次郎を自宅に住まわせます。
毎日役所に出頭させるなかで、万次郎に読み書きを教えつつ、小龍自身も英語を学び、お互いの友情を感じるまでとなりました。
小龍は、万次郎が語る異国の生活事情に大いに啓発されます。日本の現状と異国の発展ぶりとの落差に驚き、将軍(大統領)が選挙で選ばれる話には万次郎の話が事実であるか疑いさえしました。
しかし、万次郎の夜語りを聞き捨てにすることを惜しんだ小龍は、一切の私見を加えず、小龍の挿絵を加えて『漂巽紀畧五巻』を書き上げて藩主に献上。
そして同書が江戸に持ち込まれると、諸大名間で評判になり、万次郎が幕府直参として取り立てられることに。
親交のあった藩御用格医師・岡上樹庵の妻が、坂本龍馬の姉・乙女であったことから、龍馬との繋がりができて「貿易によって異国に追いつく事が日本のとるべき道」だと龍馬に説いた人物とされています。