新島襄アメリカへ

文化人教養人

「北添よ、えぞちを見物してこぬか」
北添佶摩は、びっくりした。この当時の日本人にとって、北海道といえば。心理的にはこんにち、南極を見にゆけ、といわれるにひとしい。

竜馬がゆく4 P305

志士 蝦夷地移住計画

新撰組に制圧されて京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵を組織して、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画。この策には坂本龍馬が一枚かんでいたとみられ、事実、龍馬は計画実現のために大久保一翁などに働きかけている。
文久3年(1863年)土佐藩を脱藩した北添佶摩らが、江戸から北上し安岡直行、能勢達太郎、小松小太郎らと共に奥州や蝦夷地などを周遊している。
北添佶摩は、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件に遭遇し死亡。

新島襄アメリカへ

安中藩 現在の群馬県の藩士の子。生まれは江戸で幕府の海軍学校軍艦操練所で学んだ。この時に聖書を知り、キリスト教の存在を知る。聖書の教えに感銘を受けて海外、アメリカ行きを決意する。

元治元年(1864年)アメリカ合衆国への渡航を画策し「快風丸」に乗って開港地の箱館へ。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと知り合った新島 襄は、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に6月14日(7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国。
上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えアメリカへ。船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていた新島 襄は、以降その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗ることに。

アメリカでキリスト教信者となり大学で学ぶころ、日本では新政府が成立。

1872年岩倉使節団がアメリカに来た時に通訳に名乗りを上げて一緒にヨーロッパを一周。海外の教育制度を学び、日本で学校を作ろうと10年ぶりに帰国することになります。

1875年に元会津藩の山本覚馬の協力で京都府に同志社英学校を設立。この覚馬の妹の八重と翌年結婚して夫婦協力し、同志社女学校を設立。英学校を大学にするため力を注ぐ道半ば目前で病死。

米国でキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。同志社英学校設立時にはアメリカン・ボードの協力もありました。

妻の八重とは互いに尊重し合い、夫婦仲はとても良かった。
男性と対等に生きられる自立した女性との結婚を望んでいた襄は、山本覚馬の家を訪ねたとき、井戸の上に渡した板の上で裁縫をする八重の姿を見て、その常識に拘らない姿勢が気に入って結婚を決意したといいます。

“キリスト教界の三傑”

人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直、
青山学院大学・筑波大学附属盲学校の創立に関わる津田仙
同志社大学設立の新島襄

八重の桜

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生を受け、NHKが東北復興を支援する内容のNHK大河ドラマを制作。福島県会津出身で、同志社を創設した新島襄の妻となった新島八重の生涯を描いた作品にきまりました。

1865年、南北戦争が終結したアメリカから不要となった武器の多くが日本へもたらされることになります。明治元年(1868年)、米国製武器で装備した新政府軍の攻撃にさらされる会津若松城の中に最新式のスペンサー銃を手に抗戦する一人の女性・山本八重、後の新島八重が登場します。